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2009年07月17日

承和の変と淳和院

承和9年(842年)7月15日に嵯峨上皇が崩御され、その2日後の17日に承和の変(じょうわのへん)が起こっています。
皇位継承者をめぐるそれぞれの思惑が交差する中、藤原良房によって、伴健岑・橘逸勢らが、謀反を企てたとして捕らえられ、皇太子恒貞親王を廃し、道康親王(文徳天皇)を立太子するという出来事です。
P8916.jpg画像の拡大

恒貞親王は仁明天皇の皇太子に立てられていたが、仁明天皇と藤原順子(藤原良房の妹)の間に生まれた道康親王を皇太子に擁立しようとの動きがあることを察し、皇太子の辞退を願い出ていたが、認められずにいました。
承和7年に父 淳和上皇が有力な後ろ盾のいない息子 恒貞親王の身を案じながら崩じ、さらには、嵯峨上皇が死の床につき、皇太子の身に危険がおよぶ不安が強くなり、皇太子に仕える伴健岑らが、東国に入って難を避けてもらおうと考え、7月10日 阿保親王に相談を持ちかけたところ、阿保親王が太皇太后橘嘉智子に上呈し、太皇太后は、中納言藤原良房に伝えることとなります。
この事件の結果、他氏を排斥した良房は出世を重ね、人臣初の太政大臣となり、藤原氏繁栄の基礎を築く事となります。
右京区西院 北東にある高山寺前の石碑P8923.jpg
淳和上皇は長男の恒世親王を在位中に亡くし、退位後は、淳和院(西院)に皇太后となった正子内親王(淳和太后・嵯峨天皇の皇女)と暮らしていましたが、崩御の際、薄葬にし、火葬の上、砕いて散骨するよう命じて亡くなっています。淳和上皇の終焉の心情には、感じ入るものがあります。大原野西嶺上(現在の小塩山)がその地であるそうですが、機会があれば訪れてみたいと思います。

承和の変の後、正子内親王と恒貞親王は淳和院で静かに仏道修行に専念しています。

貞観18年(876年)、嵯峨天皇の住まいされていた嵯峨院を、長女である正子内親王が大覚寺と号し、恒寂入道親王(恒貞親王)が初代門跡(住職)となっています。

佐井通四条上ルの春日神社境内には、淳和院の礎石と伝承されるものがあります。P8920.jpg佐井通四条北東角の大型電気店の壁に発掘の際の説明板があります。P8919.jpgP8918.jpg

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