Search


2009年05月31日

薪能 狂言「福の神」

薪能 「杜若」のあとは、狂言「福の神」です。

年の暮れ、福の神に参詣に行った二人の男が「福は内」と豆を打って囃しているところへ、福の神が笑いながら現れます。毎年参詣するので感心なことだと言い、神はお神酒を催促し、日本中の神に供え、自分も飲みます。
豊かになりたいという二人に、福の神はその秘訣を歌いながら教えます。元手は金でなく心の持ちようだと説き、早起き、慈悲、夫婦円満を推奨し、最後に福の神にイヤというほど酒を供えるならば、豊かになりますよと言って、再び大きな声で笑って終わります。
福の神のこの上なく福福しい笑い声が幸せを招き、見る人の心を明るくするという縁起のよい狂言です。

この狂言では、通常、専用の目も口元もにっこり笑っている「福の神」の面を使いますが、今回、福の神を演じるのは、人間国宝の茂山千作さんです。もうまさに、お面いらないでしょうといった感じですよね。素のまま、福の神です。高らかなその笑い声も、もうぴったりの役どころです。そういう意味で、とっても楽しみな演目です。P9276.jpg
このところの不景気や、社会の不安定な空気を、千作さんのパワーで吹き飛ばしていただきたいものです。

2009年05月30日

薪能 「絵馬」

薪能 二つ目の演目は、「絵馬」(半能)です。P9277.jpg
これは、観世流の謡の本です。私は謡は習っていませんが、能の鑑賞の際には、あらかじめ、この本を買い求め、一通り読んでから、観ることにしています。面をつけているので、声がこもり、何を言っているのか聞きづらいので、当日はこれをめくりながら観ています。暗くなってくるので、ペンライトも必需品です。
「絵馬」 あらすじ
勅使が伊勢神宮に派遣されて斎宮に到着します。節分の夜、絵馬をかける行事を見ようと待っていると、日照りを占う白い絵馬と雨を占う黒い絵馬を持った老翁と姥がやってきます。
白と黒の馬を掛け争うが、二人は雨も降らし日も照らして、万民のために国土が豊かになるようにと、両方の馬を掛けることにします。そして、自分たちは伊勢の二柱の神であると正体を明かし消え失せます。やがて、夜になり天照大神が、天鈿女命(アメノウズメノミコト)、手力雄命(タヂカラオノミコト)を従えて現れ、舞を舞い、天の岩戸隠れの故事を見せます。

今回は、半能なので、後半の天の岩戸隠れだけになると思います。
岩戸を少し押しあけた大神を、手力雄命が外にお連れ申し、「国土も豊かに月日の光の。のどけき春こそ久しけれ」と終ります。

60回という節目の年の演目らしく、「翁」に続く1番目物として、神さまを主人公とした祭祀色の強い演目が選ばれているのですね。このあと、市長・理事長の挨拶と火入れ式が行なわれ、「杜若」となります。

2009年05月29日

薪能 「翁」

6月1日・2日と平安神宮において、第60回記念の京都薪能が、行なわれます。P9278.jpg
演目は、チラシ写真の通りです(雨天順延)。
私は、1日に行く予定ですので、演目について予習しておくことにします。
昨日は、「杜若」についてイメージを膨らませましたので、今日は、「翁」について、検証してみます。

「翁は能にして能にあらず」と言われ、他の曲とは別格の扱いです。
演劇性を持たない、天下泰平、国土安全、五穀豊穣を祈る儀式としての舞で構成された能です。

お正月の新春能で、よく演じられるのを見かけます。
出演者は舞台に先立ち、精進潔斎するそうです。
そして、翁・千歳・三番叟の3人がそれぞれ別に舞を舞います。
翁は、楽屋ではなく、舞台の上で面をつけ、また、はずします。これは、その間、神になるということのようです。囃子方・地謡方共に、熨斗目の着物に、素袍(すおう)、侍烏帽子という最高礼装になります。
颯爽たる千歳の舞、荘重な翁の舞と続き、その後、翁は退場し、千歳と三番叟の問答の後、三番叟が「揉之段」と「鈴之段」という2つのダイナミックな舞を舞います。

謡の文句に、下のような呪文のような一節があります。

千里也多楽里(ちりやたらり)
多楽有楽(たらありやら)
多楽有楽(たらありやら)
我利利有(がりりありや)
百百百(とうとうとう)
多楽里(たらり)
多楽有楽(たらり)
多楽有楽(たらありやら)

『かくれたる”日本霊性史”』菅田正昭著によると、

千千の里なる楽しみ多き里は、多く楽しみありや。
楽しき多く楽しみ有る楽しき我に喜び有り。
百百百(ももも)しい多く楽しき里は
楽しみ多く有りや楽しみ。

という意味になるそうです。

2009年05月28日

在原業平 邸跡

5月28日は在原業平の命日です。晩年を過ごしたとされる大原野の十輪寺では業平忌が営まれます。
十輪寺を訪れようと考えていたのですが、ちょっと遠いので、中京区間之町御池の東南角にある史跡を眺めて、平安のプレイボーイを偲ぶ事にしました。(怠慢!)P9280.jpg
平安末期の鴨長明の著した「無名抄」に、業平の住まいは、三条坊門(御池通)より南、高倉より西にあったと記されているそうです。P9281.jpg
父は平城天皇第一皇子の阿保親王、母伊都内親王は桓武天皇の皇女で、臣籍降下して在原氏を名乗りました。歌人として有名で、六歌仙、三十六歌仙のひとりです。また『伊勢物語』の主人公ともみなされています。元慶4年(880)5月28日、56歳で亡くなり、遺言により、吉田神楽岡に葬ったと伝えられています。吉田山山上の竹中稲荷神社の裏に、塚があるそうです。

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
            からくれなゐに 水くくるとは

小倉百人一首には、この歌が収められています。
個人的には、次の歌が好きです。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 
            春の心は のどけからまし 『古今集』

能の演目にもよく登場しています。
「井筒」「雲林院」「杜若」「隅田川」などです。
狂言の「業平餅」は結構、愉快です。
6月1日の平安神宮の薪能では、「杜若」が演じられる予定です。

唐衣 きつつなれにし 妻しあれば 
            はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ

火入れ式の後の演目となり、日の刻々と落ちる中、薪の明かりの強まる頃ですから、とっても幽玄で、趣のある感じになるはずです。
業平の冠をつけ、伊勢物語に出てくる唐衣を着て舞うシテは、杜若の花の精でもあり、業平その人でもあり、高子の后でもあり、歌舞の菩薩の化現でもあるという4重の映像が、薪の中に揺らめくことになります。P9279.jpg
薪能ファンとしては堪りません(^^)。ひたすら雨の降らぬよう祈りつつ、心待ちにしているところです。

2009年05月27日

京の伝統野菜 ~賀茂なす・山科なす・もぎなす~

「お野菜、どうどすぇ~」
ここ、西陣では、洛北の方から荷車を引いて、野菜を売り歩く「振売り」の風景が、今も続いています。
軽トラックでやってくる人もあり、その方が野菜の種類・量が多いのですが、私は風情のある荷車の結構年配の人を、ひいきにしています。
京の夏の伝統野菜の中で、もっとも有名なのは、「賀茂なす」でしょうか?P9284.jpg
スーパーには、年中なすも大根も売っていて、どれが夏野菜やら、冬野菜やら分からなくなっていますが、賀茂なすは、これからが旬となります。揚げ出しや、田楽にして食べるのが、大好きです。

山科なすP9283.jpg千両なすと比べると少し首が太く、ぽっちゃりしたおしりの丸い感じです。

もぎなすP9282.jpg
さらに小さく、一口サイズです。扇型に切り込みを入れ広げて、天婦羅盛り合わせに、ちょこんと乗っている姿がかわいいです。

2009年05月26日

源 頼政 鵺退治

5月26日は源頼政の命日にあたります。
宇治の平等院の塔頭で、 墓所のある最勝院において、『頼政忌』が営まれるそうです。
頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、保元の乱・平治の乱の際は、勝者の側となり、中央政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇っています。

その後、平清盛が高倉天皇に譲位させ、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させたことに不満を持った後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の側について、平家打倒の最初の挙兵を行ないましたが、宇治平等院の戦いで自刃しました。

頼政には2度の鵺(ぬえ)退治を行ったという伝説があります。
最初は仁平年間(1151~1154)、毎夜丑刻になると東三条の森の方から、黒雲が沸き立って御所の上に覆いかぶさって、鳥の鳴くような奇妙な声がし、近衛天皇がひどくおびえ、警護を任された頼政が頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎という妖怪「鵺」を退治しました。
描いてみましたが、変な感じです(^^)P9285.jpg

2度目は応保年間(1161~62)、二条天皇をおびえさせた怪鳥を退治しました。
二条城の北側、二条児童公園には、鵺退治に関わる「鵺池跡」があります。P9286.jpg
頼政が鵺を射た血のついた鏃(やじり)を洗った池の跡だと伝えられています。
2005年4月にリニューアルされた公園の人口池に古い「鵺池碑」があります。
P9288.jpg
公園の北側に鵺大明神・玉姫大明神・朝日大明神を祀る祠があり、復元した「鵺池碑」が建っています。P9287.jpg
源 頼政は、頼光と同様に、武術に長け、すぐれた歌人でもあったようです。

おのづから 花の下にし やすらへば
           逢はばやと思ふ 人も来にけり
 
辞世
埋木の 花咲く事も なかりしに
           身のなる果ぞ 悲しかりける

2009年05月25日

新島襄旧邸

寺町丸太町上ったところの新島襄旧邸は、春の京都御所一般公開日と同じ日に公開されていたので、御所見学のあとに、立ち寄りました。P9302.jpg明治7年(1874年)アメリカより帰朝した新島襄が、翌年この地に同志社英学校を開校。
さらに翌年、英学校は相国寺門前に移転したため、新島の住居として改築されました。木造2階建ての洋風住宅で、宣教医テーラの助言のもと、新島自身が、設計したといわれています。
奥さんの八重さんが、弾いていたオルガンです。P9301.jpgP9300.jpg八重さんが、同志社の学生のために作って、鍵のかかるこの戸棚にしまっておいた御菓子を甘いもの好きの襄が、1人で食べてしまったそうです。P9299.jpg襄の死後、改造した茶室P9298.jpg
書斎P9297.jpg廊下P9296.jpg
2階居間P9295.jpg床の四角い板は、はずすとセントラルヒーティングの吹き出し口になります。
寝室P9294.jpg
写真を撮り忘れましたが、横に高さの低いベットがあり、洋風に慣れない八重夫人用となっていました。
キッチンP9293.jpg高さは夫人にちょうど良いように造られています。
P9292.jpg
日本発の洋式トイレ 和洋折衷な感じに造られています。P9291.jpg
お風呂P9290.jpg
オルガンの生演奏を聞かせていただきました。P9289.jpg
なんとも絵になる方です。足踏みフイゴとカタカタと音のする鍵盤。のすたるじっく!素敵な時間でした。

2009年05月24日

くぎ抜き地蔵さん(石像寺)

千本上立売上がったところに、くぎ抜き地蔵さんで有名な石像寺(しゃくぞうじ)があります。P9312.jpg弘仁10年(819)に弘法大師が唐より持ち帰った石で、地蔵尊を刻み、寺を開いたという事です。この地蔵さんは、本来、苦抜き地蔵という名前が、正しいのですが、現在では、釘抜き地蔵の名で親しまれています。P9311.jpgP9310.jpgP9304.jpg
室町時代の終わり頃、油小路上長者町に、紀ノ国屋道林という商人がいました。
両手の甲に激しい痛みを感じていたが、どんな治療をしても効果がなく、霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、満願の日の夢に、お地蔵さんが現れた。
「汝の苦しみの原因は、前世において人を呪い殺そうと、わら人形を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げて、その人形から抜き取った八寸釘を差し出しました。
夢から覚めると、両手の痛みは、うそのように消えていたという伝説があります。P9309.jpg地蔵堂の壁に、お礼の絵馬(釘抜きに二本の釘)が掛けられています。P9305.jpg
地蔵堂の裏の小祠に鎌倉時代の石像の阿弥陀三尊像があります。P9306.jpg
P9307.jpgP9308.jpgP9303.jpg

2009年05月23日

大徳寺 高桐院参道

三門をあとにして、奥の方へ向かいました。
高桐院はもみじの名所です。閉館間際の参道はとても静かでした。P9326.jpgP9325.jpgP9324.jpg紅葉の頃には、人が多すぎてこの参道もなかなか写真が撮れません。P9323.jpgP9322.jpgP9321.jpgP9320.jpgP9319.jpgP9318.jpgP9317.jpgP9316.jpgP9315.jpgP9314.jpg帰り道の塀のデザインが綺麗でした。P9313.jpg

2009年05月22日

大徳寺三門と千利休

大徳寺の総門を潜り少し歩くと、勅使門の後ろに朱色の三門が見えます。P9329.jpg
応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、その後に千利休により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられましたが、そこに雪駄を履いた利休の等身の木像を置いたことが秀吉の怒りを買い、二年後の利休の切腹の1つの要因となります。P9328.jpg山門から引き摺り下ろされた木像は、一条戻橋のたもとで磔にされ、聚楽屋敷内で切腹した利休の首は木像の下に晒されたということです。
P9327.jpg
利休の聚楽屋敷は、戻橋のすぐ近く、今の晴明神社に隣接していたとの事で、石碑が晴明神社境内に平成16年10月に建立されました。

2009年05月21日

花山天皇陵

北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)に花山天皇陵があります。
P9330.jpg
花山天皇は、安和元年(968年)冷泉天皇の皇子として、藤原懐子(かいし:太政大臣藤原伊尹の娘)との間に生まれました。
安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。
17歳で即位の時には既に外祖父伊尹は亡くなっており、有力な外戚を持たなかった。
寛和2年(986年)寵愛した女御藤原?子が妊娠中に死亡。
19歳の若さで宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位しました。

藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を即位させる為に陰謀を巡らした為と言われています。
兼家の息子の道兼が、御出家されて女御様の菩提を弔われるようにと勧め、その説得に心を動かされた花山天皇は、道兼の導きで秘かに宮中を脱出。ところが剃髪の直前、道兼は「父に最後の挨拶をしたいので」と言い出し、寺を立ち去り、あざむかれたと気づいたという事です。
その道中を、護衛していたのが、源満仲や、源頼光だったようです。
安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。」と晴明の声が聞こえたという話で、花山天皇の退位を予知した逸話が晴明神社にあるパネルに記載されています。
在位中も退位後も、女性がらみの逸話が多いようですが、芸術的才能の持ち主でもあり、優れた歌人でもあったようです。
木(こ)のもとを すみかとすれば おのづから
            花見る人と なりぬべきかな
出家後、各地を仏道修行していた頃、桜の花の下で一休みしての歌です。
寛和元年(985年)の桜の時期に平野神社で祭りを行ったという事で、花山天皇が桜の木を自ら手植えしたという話も残っています。
西国観音巡礼の再興者で、寛弘5年(1008)2月8日、四十一歳で亡くなっています。

長き夜の はじめをはりも しらぬまに
            幾世のことを夢にみつらん

2009年05月20日

晴明神社

5月18日 晴明神社内の戻橋の横の紫蘭が、咲いていました。P9337.jpgP9334.jpgP9336.jpgP9335.jpg
晴明神社は天文陰陽博士として活躍していた晴明公の屋敷跡です。
晴明公の遺業を称え、寛弘4年(西暦1007年)に一条天皇によって創建されました。
P9332.jpg
今年4月6日に奉納された安倍晴明公像が、本殿横に安置されていました。
P9333.jpg
安倍晴明公像は、神社所有の「御神像」(安倍晴明公の肖像画)を基に、出雲の阿国の銅像など制作で著名な彫刻家の山﨑正義氏によって制作されたそうです。P9331.jpg

2009年05月19日

白峯神宮と含笑花

5月18日 白峯神宮では、霊木の含笑花(ガンシュウゲ)が甘い香りを漂わせていました。P9342.jpg
和名をカラタネオガタマ・トウオガタマというそうです。P9340.jpg
本殿の前に左右に1本ずつ植えられています。P9341.jpg
中国原産の木で、日本への渡来は江戸時代中期頃だそうです。P9339.jpgP9338.jpgこちらは、小賀玉(オガタマ)の木です。招霊(おぎたま、霊を招くの意)が、なまったものとも言われています。樹高約13mで一説では樹齢800年と言われています。P9350.jpg
この日も、境内は修学旅行生で、賑わっていました。P9347.jpg
蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られている関係で、近頃では、球技全般の守護神として人気の神社となりました。
地 主 社
P9346.jpg伴緒社(とものおしゃ)P9345.jpg源為義と源為朝の親子を祀っています。
保元の乱で、崇徳上皇方につきましたが敗れ、父・源為義は京都船岡山辺で斬られ、息子・源為朝は伊豆の大島に流罪となり、自殺しました。
潜 龍 社 P9344.jpg
 

2009年05月18日

崇徳天皇と白峯神宮

P9351.jpg
怨霊伝説で有名な崇徳天皇 元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)は、堀川今出川東入るにある白峯神宮に祀られています。P9349.jpg
父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子であるが、真実はそうではなかったというのが、崇徳天皇の悲運の始まりです。P9348.jpg
白河上皇が、愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の皇后にしたという事です。そして生まれたのが崇徳天皇で、父親は鳥羽天皇ではなく、白河上皇であると噂され、鳥羽天皇は子を疎ましく思うようになったというのです。
治天の君である曾祖父の白河上皇の意志により、保安4年(1123年)、鳥羽天皇は20歳の若さで退位させられ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。

白河上皇の死後、鳥羽上皇は永治2年(1142年)22歳の崇徳天皇を退位させ、異母弟である近衛天皇(わずか2歳)を即位させます。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく死去すると、鳥羽上皇は、後白河天皇(崇徳の同母弟)を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子(のちの二条天皇)として、どうしても、崇徳上皇を阻害しようとします。

崇徳上皇は翌年、1156年(保元元年)鳥羽上皇の死をきっかけにして、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵します。これが保元の乱です。

藤原摂関家や武家の源氏や平氏が二手に分かれ、戦いましたが、後白河天皇側の勝利に終わり、上皇側についた藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は斬首、そして 崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、そののち讃岐国(香川県)に配流されました。

思ひきや 身をうき雲と なしはてて
       あらしの風に まかすべしとは

うき事の まどろむ程は わすられて
       さむれば夢の ここちこそすれ
「崇徳天皇欽仰之碑」P9343.jpg
小倉百人一首には、情熱的な恋の歌が、選ばれています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
       われても末に あはむとぞ思う

結構、好きな歌です。

2009年05月17日

式子内親王塚

千本今出川東入る、嘉楽中学校の西隣りに般舟院陵墓があります。
御柏原天皇の母源朝子陵をはじめ、一陵三分骨所十墓からなる陵墓で、平日のみ、入り口の扉が開いています。P9356.jpg
その西北奥に小さな塚があり、その前に石仏(阿弥陀如来坐像)が一体と地蔵尊が数体並んでいます。P9355.jpg
塚は木々に覆われていますが、よく見るとその上に五輪塔が建っています。P9354.jpg
古くからこの塚は「式子内親王墓」と伝えられています。P9353.jpg
『応仁記』に「千本にては両歓喜寺、この寺に定家葛の墓ありという是なり」と記されています。

般舟院の地は、もと嵯峨天皇の御願寺として建てられた大聖歓喜寺の境内であったが、応仁の乱で、焼失し、この塚のみ残ったということであるらしいとの事です。(雨宝院の前身がこの大聖歓喜寺であり、天正年間(1573~92)に現在の地に再建されたという話です。)

「定家葛の墓」というのは、藤原定家が式子内親王に恋慕の情を抱き、その執心が葛になって内親王の墓に巻きついたという伝説で、謡曲『定家』の物語になっています。

定家葛P9352.jpgこれは平安神宮内のものです。

式子内親王 (のりこ・しょくし・しきし)ないしんのう)久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日)
後白河天皇の第三皇女で、永暦二年(1161)、斎王として初めて賀茂の祭に奉仕し、それ以後、十六、七歳の年ごろまで斎院生活を送っていますが、後に出家しています。歌人としても有名です。

玉の緒よ 絶えなばたえね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする   式子内親王

式子内親王の忍ぶ恋の相手ですが、院御所の家司をつとめていた藤原定家といわれていましたが、法然上人とも長年の親交があったことから、近年では法然がその相手であるとも云われています。

2009年05月16日

和泉式部と誠心院

5月11日 藤原保昌の妻となった和泉式部にも、興味を覚え、ゆかりのある誠心院を訪ねてみました。P9364.jpg生没年不詳ですが、天延二年(974)~天元元年(978)の間の生まれとするのが通説だそうです。中古三十六歌仙の一人です。 
大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれた。道貞との間に娘 小式部内侍を儲けるも、後に別れる。
冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(977年 - 1002年)との熱愛発覚。
為尊親王の死の翌年、今度はその弟である敦道親王(981年 - 1007年)の求愛を受ける。
二人の相次ぐ早世の後、一条天皇の中宮 藤原彰子に女房として出仕。
40歳を過ぎた頃、主君彰子の父藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍に先立たれる。
晩年の詳細は知られていないが、この世の無常を思い、誓願寺に参籠し、出家したそうです。P9363.jpg
女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ、浄土へ往生したとの事です。
法名を誠心院専意法尼といい、誠心院の初代の住職であるとされています。P9358.jpg
和泉式部が女人往生を遂げたことに由来する二十五菩薩来迎の像P9361.jpgP9360.jpgP9359.jpg式部千願観音P9362.jpg
水かけの行者 神変大菩薩像P9357.jpg

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
            今ひとたびの 逢ふ事もがな

病床にあって、死期が近いと予感し、愛する男に贈った歌とされていますが、お相手は誰なのでしょうね。

2009年05月15日

平井(藤原)保昌さんの事

えんま堂狂言の土蜘蛛に出てくる平井(藤原)保昌さんについて、少し検索してみました。
平安時代中期 〔天徳二年(958)~長元九年(1036)〕の公家。
藤原南家の一族、右馬権頭藤原致忠の子。
弟に盗賊として名高い藤原保輔がいる。
摂津守となり同国平井に住まいしたことから平井 保昌とも呼ばれる。
当時、栄華を極めていた藤原道長の家司(けいし)として仕えていました。
公家の出身でありながら武勇に秀でており、源頼信・平維衡・平致頼らとともに、道長四天王の一人として名声を博しました。
長和2年(1013年)に左馬権頭兼大和守に任じられ、以後円融院判官代・丹後守・摂津守・山城守・肥前守・日向守などを歴任し正四位下に昇っています。

『宇治拾遺物語』や『今昔物語』には、盗賊の袴垂が、夜道をひとりで笛を吹き歩く男の着物を奪おうとしたが、堂々とした気迫に圧倒され何もできずに、とうとう屋敷まで付いて行き、男の屋敷で着物を恵んでもらった。それが、藤原保昌であったというエピソードがあります。

室町時代の『御伽草子』の中にも、源頼光と、頼光四天王 〔渡辺綱(わたなべのつな)・坂田金時(さかたのきんとき)・卜部季武(うらべのすえたけ)・碓井貞光(うすいのさだみつ)〕らとともに、酒呑童子を倒したというように書かれています。

そして、土蜘蛛退治にも同じように登場します。ここで、源頼光と藤原保昌の関係ですが・・・。

源頼光の方は源満仲の長子で、清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれています。
摂関家の家司として仕え、但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任、正暦3年(992年)には備前守となり、左馬権頭となって正四位下になっています。
年齢は保昌が10歳年下で、同じく道長に家司として仕えていたのですが、頼光の家臣として、保昌さんが書かれている事も多いようです。家臣というよりは、職場の同僚もしくは、部下的な感じじゃないかしらん?
頼光の父・満仲が後に保昌の妹を室にしているという話もありましたので、まぁ親しい間柄であったのでしょう。
P9365.jpg
後に、保昌さんは、肥後を離れ丹後守として当地へ赴く頃に、歌人の和泉式部の最後の夫となっています。ここに、もう1つのエピソードがあります。
和泉式部から、御所の紫宸殿前の紅梅を手折ってほしいという難題を出され、御所に忍び込み、発見されて矢を放たれながらも一枝手折って、ようやく紅梅を持ち帰って恋を実らせたというもので、祇園祭の保昌山のいわれとなっています。

こうして見てみると、なかなか、おもしろい人物です。保昌山では、鎧を着た姿で、紅梅を持っていますが、狩衣姿の花盗人にして描いてみました。

2009年05月14日

植物園の芍薬

5月4日 植物園の芍薬の開花状況です。P9379.jpg
ゴールデングローP9378.jpg
ポーラフェイP9377.jpgP9376.jpg
ムーンライズP9375.jpgP9374.jpg
レッドモナークP9373.jpgP9372.jpg
レッドグレイスP9371.jpgP9370.jpg
P9369.jpg
ラリアンスP9368.jpgP9367.jpg
P9366.jpg
まだまだこれからの花が多かったので、今頃はかなりの品種が咲きそろっている事と思います。

2009年05月13日

植物園を ぶらぶら

5月4日 植物園を散歩して、広場でうたた寝をしました。
シャガP9388.jpg
石楠花のつぼみP9387.jpg
ケシP9386.jpgP9385.jpgP9384.jpgネモフィラ(ルリカラクサ)P9383.jpg
金平糖 ではなくて、カルミア(アメリカシャクヤク)P9382.jpgP9381.jpgスヴニール ドゥ アンネフランク(通称アンネのバラ)P9380.jpg

2009年05月12日

千本えんま堂狂言 その3

最後の演目は、人気の「土蜘蛛」です。病に伏せる源頼光P9402.jpg見舞いの訪れる渡辺綱と平井保昌P9401.jpg能の舞台では、見舞いに訪れるのは、胡蝶という侍女で、もう少し妖しく色っぽい感じになります。P9400.jpg二人の下がったあとに、僧に身を変えた土蜘蛛の登場P9399.jpg頼光は名刀「膝丸」で戦いますが、取り逃してしまいます。私も肝心の蜘蛛の糸のシーンを撮り逃してしまいました(^^)P9398.jpg騒ぎを聞き駆けつけた渡辺綱と平井保昌は、松明を持って血の跡を辿り、土蜘蛛退治に出掛けます。P9397.jpg
能では、警護の独武者とか従者とかあり、渡辺綱と平井保昌の名前は出てきません。P9396.jpg土蜘蛛登場P9395.jpgP9394.jpgP9393.jpgP9392.jpgP9391.jpgついに土蜘蛛を切り伏せます。P9390.jpg
パンフレットには、この狂言でまかれる糸の一部をを持って帰ると、災難や盗難よけになり、お金が溜まると言い伝えられていると書かれていて、演目が終了すると、拾いに集まる人たちが多くいます。糸を持ち帰る人が多くて、今回は、先端の鉛玉をたくさんゲット出来ました(^^)糸と鉛玉、どちらにご利益が多いのやら?P9389.jpg

2009年05月11日

千本えんま堂狂言 その2

二つ目の演目は、「ほうらく割」です。
一の森の朝市で一番の棚に店を出した者に永代供養が与えられると聞いた鞨鼓屋(かっこや)は、夜明け前にやってきます。P9418.jpg鞨鼓を一番の棚に飾りつけ、そのまま寝込んでしまいます。ほうらく屋が、遅れてやってきます。P9417.jpgP9416.jpg鞨鼓屋に先を越されたことに気づき、一番になれなかった事をくやみます。
P9415.jpgP9414.jpg鞨鼓屋の寝ているすきに鞨鼓を下げ、ほうらくを一の棚に飾って、一番に来たように装い、寝てしまいます。P9413.jpg
気づいた鞨鼓屋はほうらくを下げ、鞨鼓を元に戻します。P9412.jpgP9411.jpg二人のけんかが始まります。P9410.jpg
さわぎを聞きつけ仲介に入った庄屋は、どちらの言い分が正しいか調べようとします。P9409.jpgP9408.jpgP9407.jpg鞨鼓を転がし、派手な振り付けで踊る鞨鼓屋に対し、ほうらく屋は、ほうらくを割らないよう、恐る恐る踊りますがP9406.jpg鞨鼓屋に割られてしまいます。P9405.jpgP9404.jpgおしまいP9403.jpg願い事を書いて奉納されたほうらくを舞台から落として割ります。ほうらくが割れると願い事が叶うという事です。

2009年05月10日

千本えんま堂狂言 その1

5月1日 えんま堂狂言を観に出掛けました。
今年は60年ぶりに「ほうらく割」が演じられるということなので、それを目当てに、初日の1日、夜の部にしました。
戦後の物不足の時代に、舞台で使う炮烙(ほうらく)が手に入らなかったことをきっかけに途絶えていたようです。

最初の演目は、お決まりの「えんま庁」です。これは、カンデンデンのはやしにのって、無言で演じられます。
えんまさん登場P9425.jpgえんまさんと帳付が着座します。P9423.jpg
鬼が亡者をいじめますが、亡者の持つ巻物の力に負けてしまいます。巻物を取り上げ、帳付に差し出します。P9424.jpg内容を読んだ帳付は、亡者が善人である事を知ります。P9422.jpg亡者を開放、鬼を懲らしめます。P9421.jpg縛り上げた鬼の番をするよう、亡者に言いつけ、えんまさんと帳付は退場P9420.jpgえんまさんの退場したのをいいことに、鬼はまた亡者をいじめようとしますが、巻き物の力にはかなわずP9419.jpg巻物を受け取るかわりに、亡者を極楽へと背負っていきます。めでたしめでたし。

2009年05月09日

レッドクリフ Part2

11月にPart1を観て、期待感の高まったまま、やっとPart2の公開が4月に始まり、早々に出掛けました。Part1が、えぇ~、そこで終わるか~って感じで、続きを観ないと収まらないという気分だったので、観たという満足感は得られました。P9426.jpg
しかし、結論から言うと、Part1の方がよかったかも~(^^)
Part1は、わくわくしたり、どきどきしたり、新鮮だったのです。
登場人物の見せ方、キャラ、戦いのシーン、音楽や、ちょっと艶っぽい場面などなど・・・。
Part2も、当たり前なんでしょうが、同じ見せ方で続いていくので、新鮮さがなく、大枠のストーリー的には何度も読んだ赤壁の戦いですから、そう変わりはないので、迫力の画面の割りには、そうそうといった感じで観てしまいました。ストーリー知らない方が楽しめるかも?でも全く知らないと理解しづらいかもしれないので、昔読んだけど、忘れてしまったぐらいの人だと、一番楽しいかもしれないなぁと、思いました。長時間になってしまうけれど、一気に観たら、たぶんもっとよかったのでしょう。
曹操のイメージが、これまで悪者一辺倒だったのですが、今回、役者のチャン・フォンイーさんのせいか、可愛く感じてしまいました。小喬がやってきて、お茶を楽しんだりながら小喬を見る目がたまらなくうれしそうで、なんかおバカで憎めないお山の大将といったキャラがよかったです。

2009年05月08日

京都御所特別公開 2009

旬の花を先にアップしてしまったので、4月27日に出掛けた御所公開のアップが遅れてしまい、説明を入れるにも、忘れてしまったというか、多すぎて面倒になってしまったので、簡単に順路に沿って並べました。P9442.jpg両陛下金婚のお祝いという事で、今年はいつもより順路を延長されたそうです。
P9460.jpgP9459.jpg諸大夫の間P9458.jpg
P9457.jpgP9456.jpgP9455.jpg承明門P9454.jpg紫宸殿P9453.jpgP9452.jpg清涼殿P9451.jpgP9450.jpg御池庭P9449.jpgP9441.jpg
P9448.jpg御常御殿と人形(三献の儀)P9440.jpg
P9447.jpgP9439.jpg
皇后宮常御殿と人形(束帯・十二単)P9446.jpg玄輝門内に置かれた牛車P9445.jpg肝心の初公開らしき若宮・姫宮御殿をなんか、北向きで暗くて寒そうだなぁと思っているうちに写真を撮らずに通り過ぎてしまいました。明治天皇が、幼少期に住まわれていたそうですが、子供部屋は、やはり南向きにすべきではないかしらん。
板輿P9444.jpg新緑が目に心地よかったです。P9443.jpg

2009年05月07日

洛翠庭園 閉館

岡崎の動物園の東にある洛翠庭園は、元藤田家の本宅であり、1,000坪を有する敷地内の日本庭園は明治42年、7代小川治兵衛により作庭され、造園「植治(うえじ)」当主11代小川治兵衞氏により、復元・改修・維持が行われています。5月10日に閉館されるという事で見に行きました。
P9438.jpg画像の拡大P9436.jpg
庭の中央の池は琵琶湖を模しているそうで、その水は琵琶湖から疏水を通って引き入れられているそうです。P9435.jpgP9434.jpgP9433.jpgP9432.jpgP9431.jpg
臥龍渡りP9429.jpg画仙堂 詩仙堂、歌仙堂と並ぶ京都三仙堂のひとつです。P9428.jpgP9427.jpg今後、どのようになるのか、お庭を維持した状態で、また公開してもらえるといいですね。

2009年05月06日

上御霊神社の一初

5月3日 上御霊神社の拝殿には、御霊祭に使われる3基の神輿が飾られていました。
1日から18日まで行なわれるこの御霊祭は京都で最古の祭礼といわれています。P9471.jpg
そしてこの時期、境内やその周囲には、一初が満開になります。P9470.jpgP9469.jpgP9468.jpgP9467.jpgP9466.jpgP9465.jpgP9464.jpgP9463.jpgP9462.jpgP9461.jpg

2009年05月05日

本満寺の牡丹

日付が前後しますが、4月27日の本満寺の牡丹の様子です。P9481.jpgP9480.jpg
土曜の雨で、大半の花がだめになってしまっていて、これから開く遅めの花だけがしっとりと美しく開花しようとしていました。P9479.jpgP9478.jpgP9477.jpg
桜の絨毯P9476.jpgP9475.jpgP9474.jpgP9473.jpgP9472.jpg
牡丹の時期は、ほんとに短いですね。

2009年05月04日

大田神社の杜若 

5月3日 大田神社の杜若を見に行きました。P9489.jpgP9488.jpg見頃には少し早い感じです。P9485.jpgP9486.jpgP9484.jpg 神山や 大田の沢の かきつばた
     ふかきたのみは いろにみゆらむ 
                     藤原俊成卿P9483.jpgP9482.jpg昨年5月12日の様子はこちらhttp://www.zuzu-e.sakura.ne.jp/ownerblog/2008/05/post_30.html

2009年05月03日

當麻寺の牡丹と中将姫 その2

P9497.jpgP9496.jpg中将姫伝説
聖武天皇の頃、藤原豊成と妻 紫の典侍の間では、なかなか子宝に恵まれず、長谷寺の観音に参篭して祈願をこめ、ようやく生まれたのが中将姫であった。不幸なことに、姫が5才の時、その母が亡くなり、父豊成は橘諸房という人の娘である照日前を後妻として迎えた。継母の照日前は、次第に姫を憎むようになり、ついには殺そうと計画する。家臣の働きにより、姫は死んだと偽り、山中に住まううち、父と再会し、屋敷に戻るも、仏門に入る事を決心して、当麻寺へ向かう事になる。17歳の時、実雅法師によって髪をおろして出家して「中将法如」となり、修行に励む事となる。ある時、霊感を得て百駄の蓮華の茎から繊維をとって一夜にして曼陀羅を織りあげ、その後29歳の若さで、浄土に帰った。という話が伝わっています。
P9495.jpgP9494.jpg中将姫の像P9490.jpg
P9493.jpgP9491.jpg西塔P9506.jpgP9492.jpg近頃では、中将姫も発展家になられたようで、草食系男子?のせんと君をデートに誘った模様ですね(^^)
5月14日に営まれる法要「練供養会式(ねりくようえしき)」に、せんと君をお招きするそうです。

2009年05月02日

當麻寺の牡丹と中将姫 その1

P9507.jpg
612年、麻呂子(まろこ)親王が御兄 聖徳太子の教えによって、万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立。後に、親王の孫になり「當麻氏」と称したことにより、當麻寺と寺号を改めたというのが、この寺の起こりです。本堂には、中将姫が織り上げた綴織 當麻曼荼羅を文亀年間(1501~3)に転写した文亀本當麻曼陀羅が安置されています。金堂には、創建当初の本尊である弥勒仏坐像が安置されています。 その弥勒仏を囲むように、四天王立像が邪鬼の上に立っています。頬から顎にかけて髭をはやした彫りの深いお顔立ちで、なかなかイケ面です。
P9504.jpg
中之坊本堂には、中将姫の守り本尊である「導き観音」がご本尊として祀られています。このお堂で中将姫は髪を剃り落とし「法如」という名を授かり尼僧となっています。
当時、當麻寺は女人禁制で、入寺を許されなかったが、姫が一心に念仏を唱えたところ、そのお経の功徳で、足跡がついたという中将姫誓いの石です。P9505.jpgP9502.jpg
東塔P9503.jpgP9501.jpg
こちらの牡丹は傘付き、添え木付きで、傘は絵になりますが、添え木がにょっきりと花の横に飛び出しているのは、ちょっと困りものです(^^)P9500.jpgP9499.jpgP9498.jpg

2009年05月01日

石光寺の牡丹 その3

石光寺の牡丹の最終回です。P9524.jpg
P9523.jpgP9522.jpgP9520.jpg蝶が飛び回っていたので、一緒に撮りたかったのですが、ひらひら動き回って、全くじっとしてくれませんでした。
花が多すぎて目移りしてしまうのか、警戒心が強くてカメラの前では、止まろうとしないのか、さっぱりでした。P9519.jpgP9518.jpgP9517.jpgP9516.jpg石楠花も少し咲いていました。P9515.jpgP9514.jpgP9513.jpgP9512.jpgP9511.jpgP9510.jpgP9509.jpg
せっかく遠方までやってきたのですから、當麻寺に寄っていこうと、田舎道を歩いていると、中将姫の墓塔の案内板を見つけました。それは小道を少し入ったところにありました。P9508.jpg
今も大切にお守りされている様子でした。