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2009年12月31日

お正月迎え

お正月用の飾りつけ

店先に餅花を飾ってみました。p7843.jpgp7842.jpg

本年もありがとうございました。
良いお年をお迎えください。

2009年12月30日

京の伝統野菜 パート17

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2009年12月29日

京の伝統野菜 パート16 金時にんじん

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このにんじんを、スーパーで多く見かけるようになると、もう正月間近です。
お煮しめは、これでなくてはなりません。

2009年12月28日

キタキツネ

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キタキツネの権(ごん)です。北海道で買ってきました。

2009年12月27日

平 兼盛

正暦元年12月28日(991年1月21日)平安時代中期の歌人である、平 兼盛(たいら の かねもり)が亡くなりました。
「天徳内裏歌合」において、壬生忠見と対決したことで有名です。
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 
     物や思ふと 人のとふまで
邸は六条北高倉東と伝えられています。高倉会館と高倉幼稚園のあたりです。p7851.jpg

2009年12月26日

綜芸種智院

天長5(828年)12月 空海が九条坊門南・西洞院西に綜芸種智院を創建しました。

庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、藤原三守から譲り受けた京都の左京九条の邸宅に設置した私立学校です。身分上大学や国学に入れない者のために設立されましたが、空海没後は後継者がなく廃絶しました。
南区西九条池ノ内町(西福寺前) に石碑が建っています。p7852.jpgp7853.jpg
実際はこの地よりも南東、九条弘道小学校附近にあったということです。


2009年12月25日

与謝 蕪村

江戸時代中期の日本の俳人、画家である与謝 蕪村は、 天明3年12月25日(1784年1月17日)に亡くなりました。
下京区仏光寺通烏丸西入ルに終の居宅がありました。p7856.jpg
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辞世の句

しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり

墓所は左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)にあります。p7849.jpgp7850.jpg
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2009年12月24日

終い弘法

12月21日 終い弘法さんに立ち寄りました。p7863.jpgp7862.jpgp7861.jpgp7860.jpg
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大勢の人で賑わっていました。なにやら気忙しくて、収穫は、なしでした。

2009年12月23日

小野篁

仁寿2年12月22日(853年2月3日)小野篁が亡くなりました。堀川鞍馬口上るに紫式部と並んで、その墓があります。p7866.jpgp7865.jpgp7864.jpg


2009年12月22日

市バス チョロQ

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市役所前~。

2009年12月21日

ぽっくり

定休日

舞妓さんへのあこがれの一つが、ぽっくりですね。こけそうやけど・・・。pokkuri.gif

2009年12月20日

福玉

師走の花街の風物といえば、福玉ですね。
年の瀬に舞妓さんがお茶屋さんに一年の挨拶回りに行く際に、お茶屋さんからお年玉替わりにもらったり、ごひいきの旦那さんからもらったりするものです。干支の置物などの縁起モノや、ちょっとした小物が入っているそうです。貰った福玉は、大晦日に開けるのが慣わしとなっています。
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切通しの進々堂さんや、南座のお向かいの井澤屋さんで売ってらして、一般でも購入できるそうですが、いまだ買ったことがありません。
子供の頃、これをぷらぷらと下げて歩いたはる舞妓さんを、うらやましく眺めていたように思います。
かじってみたい・・・。

2009年12月19日

富岡 鉄斎

天保7年12月19日(1837年1月25日)富岡猷輔(とみおかゆうすけ)  後の鉄斎(てっさい)は、生まれました。
明治・大正期の日本の文人画家であり、儒学者です。
富岡の家は、代々、三条衣棚で、曹洞宗御用達の法衣商を営む老舗でした。

鉄斎15歳の頃、太田垣蓮月の侍童として蓮月の身辺の世話などをしながら学問に励んでいました。
安政の大獄で、梅田雲浜などが投獄された際には蓮月は、鉄斎の身を心配して、長崎に留学することを助言してぃます。

47歳の時、上京区室町通一条下る東側に移り住み、画業に専念しています。p7871.jpgp7870.jpg

2009年12月18日

西郷隆盛

1898年(明治31年)12月18日、東京の上野公園で西郷隆盛銅像の除幕式が行われました。
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(写真は、上野の物ではありません。念のため)

しかし除幕式の時に、この銅像を見た、妻のイトさんは「こげんな人じゃなかった」と呟いたそうです。

西郷隆盛の顔写真は一枚も存在しなかったため、政府に雇われたイタリア人の彫刻師が、西郷隆盛の弟と従兄弟の顔を足して2で割って描いた肖像画が元になっているため、実際の西郷さんとは、違っているという話です。

坂本龍馬は初めて西郷さんと会った時の感想を、師の勝海舟に次のように語っています。

西郷はいよいよ馬鹿じゃ。けんど、馬鹿じゃけんどなかなかずるうない、あの馬鹿さはあなどれん。小(こ)んもうに叩いたら小(こ)んもうになって、太(ふと)うに叩いたら太(ふと)さをみせる。

(西郷は馬鹿である。しかし、その馬鹿の幅がどれ程大きいか分からない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。)

2009年12月17日

東山天皇と忠臣蔵 法住寺

宝永6年12月17日(1710年1月16日)東山天皇(ひがしやまてんのう)が天然痘にかかって34歳で崩御されました。江戸時代の第113代天皇で、長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた方です。

1701年3月、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の接待をめぐって、あの忠臣蔵の松の廊下の刃傷事件が起こっています。
近衛基熙の日記に、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたとき、天皇はお喜びになられた旨が記されています。天皇は、吉良義央を好ましく感じていなかったようです。

帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行っています。

12月14日、東山七条の法住寺でも、義士の法要が行われました。
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こちらの慈覚大師の建立と伝わる身代不動明王に、山科に閑居していた大石内蔵助(良雄)が仇討ち祈願をしたといわれています。同志との連絡・会合の場所でもあったそうです。その縁から四十七士の小像も安置されていて、毎年、この日に法要が営まれています。p7873.jpg

2009年12月16日

京の伝統野菜 パート15 鶯菜 

スーパーではあまりお目にかかりませんが、京の伝統野菜に含まれています。

うぐいす菜
江戸時代の中期に、現在の中京区神泉苑町の農家が、天王寺かぶの早生種作出のために選抜淘汰してできたとされています。茶事や高級料理店で、用いられています。p8122.jpg

2009年12月15日

小野篁

承和5年(838年)12月15日 遣唐使の副使を断り、遣唐使制度そのものを批判したことから、小野篁(たかむら)は、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪になりました。承和7年(840年)には帰京を許され、従三位にまで叙せられました。
わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 
      人には告げよ あまの釣船
これは島へ渡る際の歌です。

初代・遣唐使の小野妹子の子孫で、小野道風・小野小町のご先祖でもありますが、冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物としても有名です。
井戸を通って地獄に赴いていたのですが、その入り口は東山の六道珍皇寺に今もあります。出口の井戸はというと、嵯峨の福生寺にあったのですが、現在は井戸も寺も存在しません。嵯峨釈迦堂の東のあたりは六道町といい、かつて福生寺のあったあたりです。

地獄で、苦しむ亡者のために罪を受けているという地蔵尊に出会い、現世に戻り福生寺を建立して地蔵尊を祀ったということで、嵯峨釈迦堂藤ノ木町の薬師寺にその地蔵尊は伝えられています。
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閻魔大王が、三熱の苦しみにあえいでいて、菩薩戒を受けたいと望んだ折には、満慶上人を案内し、上人の菩薩戒で閻魔大王の苦しみを除いたという話もあります。これは、寺町三条上るの矢田寺に伝わる話です。p7879.jpgp7878.jpgp7877.jpgp7876.jpg
布製のかわいいお地蔵さまのお守りがなんともいい感じです。p7875.jpg

2009年12月14日

テディベア 討ち入りバージョン

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2009年12月13日

岩屋寺の猫

山科の岩屋寺の石段を上ります。p7915.jpgp7914.jpg
本堂にお参りした後、右手の方を見ると鳥居が・・・。p7913.jpg
通路には猫が待っていました。p7912.jpg
おこしやす。ご案内役のお軽どす~。(勝手に命名してしまいました。)
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これは「大石弁財天」言うて、内蔵助はんが祀らはったといわれてんのどすえ~。
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池の鯉は、ちょっと大きぃなり過ぎて、手に負えしまへんわ~。p7910.jpg
本堂に安置されているご本尊は、内蔵助良雄はんの念持仏といわれてます~。p7908.jpg
ちょっと、ごめんやっしゃ~。p7907.jpg
冬場は、乾燥してますよって、痒うてなぁ~。p7906.jpg
え~と、p7905.jpg
話どこまでやったかいな~。p7904.jpg
ちょっとまた、待っとおくれやっしゃ~。p7903.jpg
気持ちよぉなったわ。p7902.jpg
まぁ、そんなわけで・・・。p7901.jpg
奥の茶室、御案内しますわ。内蔵助はんの邸宅の廃材で建立されたもんどっせ。p7899.jpg
こちらへどうぞ。p7900.jpg
外部は、後から直してますけどなぁ~。p7897.jpg
手前に植わってるのんが、内蔵助はんの手植えの梅どっせ~。p7898.jpgp7883.jpg
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ご飯はもろてんのどすけど・・・。p7894.jpg
中へは入れてもらえへんのどすわ~。p7893.jpg
まぁ、しゃ~おへんわ。ほなここで、失礼させてもらいます~。p7892.jpg
石段には、明日催される、義士祭ののぼり旗が、ゆらゆらと。p7890.jpg
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木像堂
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近道を大石神社の方へ戻ってきました。p7885.jpg
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年の瀬や 水の流れと 人の身は
          明日またるる その宝船

 

2009年12月12日

大石神社

「時は元禄15年12月14日! 江戸の夜風を震わせて・・・。」
ご存知、忠臣蔵討ち入りの日も間近に迫ってきました。近頃では、あまりドラマにならず、ちょっと物足りない気もしますが・・・。
というわけで、山科にある大石神社に行ってきました。p7929.jpgp7928.jpg
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境内の大石桜の紅葉は、綺麗さっぱり、終わっていました。p7926.jpg
向かって左には、赤穂義士討入りに際し、必要な武器を調達した大阪の豪商 天野屋利兵衛を祀った義人社があります。「天野屋利兵衛は、男でござる。」 の名台詞で有名ですね。
商売の神様ということなので、ここはしっかりお参りしなくては。p7925.jpgp7924.jpg
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その奥の山道が大石良雄遺髪塚への近道になっています。p7922.jpgp7921.jpg
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大石良雄隠棲旧址碑p7916.jpg
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大石良雄を偲んだ句碑や歌碑が点在していました。p7919.jpgp7918.jpg
明日は、石段を上って、岩屋寺です。


2009年12月11日

京の伝統野菜 パート14 えびいも・日野菜

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里いもの一種ですが、横縞模様と曲がった形が、えびに似ている事からえびいもと呼ばれています。
棒だらと炊いたのが、ぼちぼち季節の一品ですね。

日野菜p8123.jpg
大根の親戚だと思っていましたが、かぶの仲間だそうです。ちょっとくせのある香りと味わいがなんともいい感じです。

2009年12月10日

大田垣蓮月

明治8年(1875)12月10日、蓮月尼が85歳で逝去しました。p7930.jpg
晩年の住処としていた神光院の庵は、今も保存され、紅葉の名残が鄙びた風情をかもし出してています。
神光院の南西にある西方寺の墓地にそのお墓があります。p7931.jpg
墓参りをしてきました。
大田垣蓮月さんに関しては、2月のブログで紹介しています。

2009年12月09日

神光院 紅葉 2009

12月6日、北区西賀茂の神光院を訪れました。p7950.jpg
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山門の紅葉は盛りを過ぎ、散紅葉といった感じです。p7941.jpgp7942.jpg
山茶花p7949.jpgp7948.jpgp7947.jpg
梅もどきと池p7946.jpgp7945.jpgp7944.jpg
蓮月庵前の紅葉も終わろうとしていました。
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かえってこの方が、寂びた感じがしてよいかも。
中の紅葉に比べると参道は遅いようで、片側はまだ見頃を保っていました。p7940.jpg
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静かに名残を惜しめる空間ですね。


2009年12月08日

右近の橘

『日本紀略』によると、京都御所の紫宸殿に天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本が植えられたそうです。
南階下西側に植えられ、朝儀のとき、右近衛府の武官の列する側にあたることから、右近の橘と呼ばれるようになったようです。p7953.jpg
写真は、御所ではなく、白峯神社のものです。
反対側は、左近の桜ですが、最初は梅だったそうですね。p7952.jpg
橘の実は、不老長寿の妙薬という言い伝えがありますが、かわいらしい実が鈴生りになっている様は、お雛さんで子供の頃からなじみ深いものです。p7951.jpg

2009年12月07日

JAL

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いろいろ話題のJALの腕時計です。
ライトが点滅する仕掛けになっていたのですが、財源不足の為・・・。

2009年12月06日

花 イラスト シリーズ ~12月 千両~

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画像の拡大

2009年12月05日

晴明神社 紅葉

11月30日の晴明神社です。p7959.jpgp7956.jpgp7957.jpgp7958.jpg

2009年12月04日

藤原 行成

万寿4年12月4日(1028年1月3日))藤原行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)が亡くなりました。 平安時代中期の廷臣で、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。

天皇の外戚である、一条摂政謙徳公・藤原伊尹の孫に生まれ、父はその御曹司で、美貌の歌人で知られた藤原義孝でしたが、相次いで、後ろ盾のこの二人を亡くし、出世の道を閉ざされていました。

ある時、天皇の御前で、藤原実方が自身の歌を行成に悪評されたことを怒り、行成の冠を地に投じる騒ぎが、ありました。行成は事を荒立てず、冠をひろわせ、被り直したということです。そのふるまいから、実方は、「歌枕を見てまいれ」との一条天皇の命で、陸奥国(東北)へ左遷となり、行成の方は覚えめでたく、その後、源俊賢の引き立てもあり、蔵人頭へ昇進することになったとも言われています。

問題の歌は、東山の桜狩りに詠んだものです。

桜狩 雨は降り来ぬ 同じくは
  濡るとも花の 蔭に宿らん

これに対し、行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり。」
(なるほど歌は風流だが、作る奴は馬鹿だ。)と評したということです。

*3年後、任地で実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通り、乗っていた馬が突然暴れ、あっけなく死んでしまいます。

実方も行成も清少納言と交流があったようです。

行成が清少納言と深夜の長話の末、帝の御物忌のため、急いで帰っていき、翌朝の手紙に尽きぬ話があったのに、鶏の声に急かされて帰ってきてしまいましたとの後朝の文めいた美しい手紙が届き、あんな夜中に鶏が鳴くわけがない。それは、函谷関をだまして通った孟嘗君のあのそらなきでしょうと返し送った、清少納言の歌は、有名です。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
    よに逢坂の 関はゆるさじ

行成も返歌を返しています。

逢坂は 人越えやすき 関なれば
 鶏鳴かぬにも あけて待つとか

上京区大宮通一条上る西側附近に、藤原行成の邸宅はありました。
長保3年(1001年)、邸宅内に世尊院堂を建立しました。p7962.jpg
このことから、行成の子孫の書流を世尊寺流と呼ぶようになったそうです。

2009年12月03日

黒田長政

永禄11年(1568年)12月3日に黒田(官兵衛)孝高の嫡男 松寿丸(長政)は生まれました。

天正5年(1577年)、父・官兵衛が織田信長に属したため、人質として近江国長浜の羽柴秀吉に預けられました。
天正6年(1578年)、荒木村重が信長に反旗を翻したとき(有岡城の戦い)、官兵衛が村重を説得する為に伊丹城に乗り込みましたが、捕われてしまいます。信長はいつまでも官兵衛が戻らないので、村重方に寝返ったと思い込み、幼い長政を処刑するよう命じますが、竹中(半兵衛)重治の計らいで匿われ、一命を落とさずに済みます。信長の死去の後、父と共に秀吉の家臣となります。
天正17年(1589年)、父が隠居したために家督を相続し、同時に従五位下、甲斐守に叙任します。

上京区油小路の中立売通から、上長者町通までの間は甲斐守町といい、長政の邸のあったあたりと言われています。p7964.jpg
これより上、堀川一条東入るには、諸侯屋敷・ 一条下り松 遺跡 の石碑が建っています。p7963.jpg
聚楽第周辺に諸侯の邸があった事を示しています。p7955.jpg

*一条下り松 遺跡 
 宮本武蔵との決闘で名高い吉岡の道場があったとされる場所でもあり、その裏庭に松があり下り松といわれ、そこで決闘がなされたと伝えられています。一乗寺下り松は、この一条下り松が誤り伝えられたものという説があります。

2009年12月02日

細川忠興

正保2年12月2日(1646年1月18日)、細川忠興が亡くなっています。正室は明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)です。父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられ、茶道の流派三斎流の開祖です。

かなり、激しい性格のようで、女性の自意識を認めないような感じがあんまり好きではないですが、利休には可愛がられていたようですね。まぁ、利休も激しい人ですから、合うのかもしれませんね。

利休が秀吉から蟄居を命じられた際に見送りに行ったのも、古田織部と細川忠興二人だけで、この二人に茶杓を残して利休は切腹していますから、かなり密な間柄だったのでしょうね。

大徳寺高桐院は細川家の菩提寺で、利休から送られた石燈篭を三斎の墓石としています。
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秀吉が所望したこの石燈篭を、利休はわざと裏面の1/3を欠き、壊れ物だからと、秀吉の要望を退けました。その後、利休切腹の際に、忠興に贈ったといわれています。
この下に、忠興の歯が埋葬されているそうです。

利休は「天下一」という名前をこの石燈篭につけていたそうですから、秀吉が欲しがるのも無理からぬことですね。

2009年12月01日

藤原 俊成

元久元年11月30日(1204年12月29日)平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人である藤原 俊成(ふじわら の としなり)が亡くなりました。「しゅんぜい」とも読みます。定家の父親です。

有名なエピソードといえば、やはり平忠度が訪ねてきたことでしょうか。

平清盛末弟・平忠度は、歌人としても優れていましたが、1183年(寿永2)7月の平氏一門の都落ちの際に、忠度は従者6人と共に都に引き返し、歌の師である藤原俊成の邸を訪れました。
この後、勅撰和歌集を作るおりには、私の歌を一首でも入れていただけるとうれしいと巻物を手渡して、また落ち延びてゆきました。
まもなく忠度は一ノ谷の戦いで戦死。
1187年(文治3年)、後白河法皇の院宣を奉じて、『千載和歌集』を撰集した際に、俊成はその巻物の中より、次の一首を勅撰和歌集に載せました。
「故郷花」
さざなみや 志賀の都は あれにしを
      むかしながらの 山ざくらかな

忠度が勅勘の身であることから、「詠み人知らず」として載せられています。

後世に俊成の霊を祀って、その邸址に社が建てられました。
下京区烏丸松原の烏丸通沿いにあります。p7970.jpgp7968.jpg
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息子定家の選による百人一首には、下記の歌が収められています。

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
      山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

                 皇太后宮大夫俊成