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2016年10月15日

「近世京都の宮廷文化~宮廷大礼文化の風景~」展

「京セラ美術館」と、「城南宮(斎館)」の2会場で、11月13日(日)まで「近世京都の宮廷文化~宮廷大礼文化の風景~」展が開催されています。12-073.jpg
京セラ美術館といっても、今話題の京都市京セラ美術館ではありません。京セラ本社ビル1階にある京セラ美術館です。なんかややこしくなりそうな・・・。

近世以降の天皇の代初めに行われる即位式や、大嘗(だいじょう)祭などの大礼の資料が展示されていました。京セラ美術館の方は、小原家文庫に収集されている資料や光雲寺、個人所蔵の資料などが展示されていました。

大嘗祭とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭の事で、夜半から深夜にかけて行われます。11月23日がその新嘗祭の日で、宮中祭祀のひとつである収穫祭です。10月31日ではありません。
起こし絵という形で描かれた人物は、正面の姿と裏側に背面の姿が描かれていて、元祖 飛び出す絵本といった感じで、興味深いものがありました。12-082.jpg
城南宮の展示の方は、撮影可となっていました。大正天皇の即位式の行われた京都御所 紫宸殿と南庭の模型が真ん中に展示されていました。紫宸殿の屋根がないのは、内部を見せるためでしょうか?12-081.jpg
立派な橘ですね。酸味が強く生食用には向かないようですが、こんなにたわわに実っていると、食べてみたいような。田道間守が常世の国より持ち帰ったという実ですから、御菓子にしてみたいですね。12-074.jpg
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今生天皇の即位式も、高御座を隠密空輸 などせずに、京都で執り行って頂きたかったですね~。

2016年10月07日

梅小路公園 「藤袴と和の花展」

藤袴が見頃との事で、梅小路公園の朱雀の庭を訪れてみました。「藤袴と和の花展」と題した展示で、風情のある和の花を見る事が出来るようです。
松虫草12-096.jpg
以前、写真を見て綺麗だなと思い、絵にしたのですが、実物は初めて見ました。愛らしい花です。12-083.jpg
雨が降り続いたせいか、きのこが元気です。松の足元なのに、松茸ではないのが残念ですが。12-095.jpg
平家一門の邸宅群のあった場所として、西八条第跡という石碑が建てられています。12-094.jpg
寿永2年(1183) 平家一門が木曽義仲によって平安京から追われる際に、平家自ら火をつけて焼失させたという話です。栄耀栄華の夢の跡地ですね。
朱雀の庭の奥には、命の森という草木の生息空間が作られています。樹冠回廊があり、森を観察する事が出来ます。観察会をされていましたが、蚊に食われそうで、足早にスル―したつもりが、2,3か所刺されてしまいました。武装して、またトライする事にします。
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こじんまりした紫式部ですが、綺麗な実を付けています。12-092.jpg
さて、藤袴の一帯にやってきました。12-091.jpg12-090.jpg12-089.jpg
アサギマダラに会えるかと期待していたのですが、アオスジアゲハですね~。12-088.jpg12-087.jpg12-086.jpg
和の花の展示即売もされていたので、藤袴やシュウメイギクなど気になる鉢があったのですが、これ以上増えても世話が大変なので、泣く泣く見送り、お茶にしました。冷たい抹茶が爽やかです。12-084.jpg
久しぶりのお天気で公園は、大賑わいでした。

2016年04月21日

2016 京の桜 東寺

4月4日 十輪寺を出て、お茶を飲みたくなっていたので、東寺にやってきました。12-345.jpg
こちらでは、枝垂れ桜の横の茶店で、お抹茶が頂けます。桜を愛でながら頂くお茶タイムは、この上ない至福の時です。12-346.jpg
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この間、こちらを訪れた時は、店が一杯立ち並んでいたので、ずいぶん違った印象になります。12-338.jpg12-337.jpg12-336.jpg
この日の桜はこれにて終了です。

2015年05月08日

平等院

平等院 藤を堪能した後は、極楽浄土の宮殿をモデルにしたという鳳凰堂の周りを廻ります。12-955.jpg12-954.jpg
「丹土(につち)色」と瓦の濃い墨色が美しい調和を保っています。12-953.jpg
少ししゃがみこむと、本尊のお顔を拝むことが出来ます。建設当初とは、池の水位が違うそうですね。12-952.jpg
復元された瓦は均一な色味ですが、南側の屋根に、古い瓦を使ったそうで、色味の違いがよくわかります。12-951.jpg
鐘楼12-950.jpg
鳳翔館では、大棟に据えられていた一対の鳳凰を真近に観る事が出来ました。比べてみると確かに胸の骨格の隆起している雄と、そうでない雌が分かります。雲に乗った菩薩像群は珍しくて、とても興味深いものでした。ミュージアムショップをプラプラしているうちに、予約した時間になり、鳳凰堂内部見学が出来ました。定朝作という阿弥陀如来像が鎮座されていました。修復が終わったはずの鳳凰堂ですが、どうも修復の修復中のようで、あちこち紙が貼られていて、昼休みを終えたらしき職人さんたちが戻ってきました。12-949.jpg
後ろ側の塔頭寺院には、あの鵺退治をした源頼政の墓 
以仁王の乱の際、平等院で自刃していますからね~。12-947.jpg
救世船乗観音 人間のいろいろな旅立ちを見守ってくれる観音様だそうです。12-945.jpg12-944.jpg12-943.jpg
表参道を歩いて、ランチタイム12-942.jpg
窓の向こうに鵜が佇んでいました。12-941.jpg
紫式部12-940.jpg
風がさわやか。12-939.jpg
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川沿いの茶室 対鳳庵12-937.jpg12-936.jpg
広間茶席にて、お抹茶を頂きました。お出かけ着物写真を撮り忘れて、洗いに出してしまったので、パソコン上で、再現してみました。12-935.jpg

2015年05月05日

平等院 藤

4月27日 咲き始めたという藤と、修理されて美しく蘇った極楽浄土を拝みに平等院に行ってきました。門前と鳳凰堂横に藤棚があります。本日は藤のみ。12-979.jpg12-978.jpg
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鳳凰堂の拝観は1時間半待ちで、予約チケットを先に買って他を見学するというシステムでした。
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昨年よりは、回復しているという藤の花、ピークは、ゴールデンウイーク前半との事です。
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まずまずの咲き具合でした。


2013年11月14日

今様合松殿十五ヶ日

11月15日(金)まで宇治市木幡の松殿山荘で開催されている「今様合松殿十五ヶ日」を、見に行ってきました。9-405.jpg
時折、時雨たりする肌寒い日でしたが、白拍子にちなみ、烏帽子柄の帯を締めてみました。9-364.jpg
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こちらは、平安時代松殿と呼ばれた藤原基房の旧邸跡地で、4万坪に及ぶ広大な敷地を有しているそうです。9-403.jpg
現在の建物は大正期に高谷宗範氏が設計したもので、宗範を祖とする茶道「山荘流」の所有となっています。9-402.jpg9-401.jpg
こちらの30畳の大書院で今様合(いまようあわせ)が催されます。9-400.jpg
額は宗範78歳の字だそうです。解説の後、関係者の入場です。9-397.jpg
フラッシュなしで、節度を保った撮影はOKとの事です。節度というのが結構難しいのです。つい激写したくなるので・・・。9-396.jpg
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左右4名ずつの歌人が向い合せに並び、センターに提出された今様を読み上げる講師(こうじ)が2名、諸役(道具を配るなどの雑務)を務める白拍子が脇に控えます。9-394.jpg
最後に勝敗を判定する判者(はんじゃ)が席に着かれます。

貴族たちが左右の組に分かれ、さまざまなものの優劣を競って遊んだという「「合せもの」。9-398.jpg
承安4年に後白河院が今様合を十五夜連続で行ったという資料に基づき、開催されている催しだという事です。
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歌人たちに硯と色紙が配られます。9-392.jpg
本日の詠題が講師によって示されます。「風」となりました。(確かに後ろのお庭から風音とすきま風が・・・。)9-399.jpg9-391.jpg
各々、墨をすり、作歌染筆してゆきます。和歌は五・七・五・七・七ですが、今様の方はさまざまな形があるようです。代表的な詩形は七五調四節(七・五・七・五・七・五・七・五)となります。9-390.jpg
歌人の一般募集が行われていたので、思わず参加したい!とか思ったのですが、いろいろ素養が必要で、結構大変そうじゃない・・・。9-389.jpg
書き上げた歌人は畳に紙を置き、待ちます。9-388.jpg
最初に詠題と氏名が記され、その後、歌が書かれています。ふりがなも打たれている様子。
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向い合せて座っている歌人どうしがそれぞれの対戦相手となります。上座左方の歌人の歌から詠み上げられてゆきます。9-386.jpg
判者が思案。右方の勝ちとなりました。9-385.jpg
講師が、勝った側の歌を詠み、その歌詞に合わせて即興の舞が舞われます。9-384.jpg9-383.jpg
二番目の歌人たちの歌も同様に勝敗が決められ、また勝った右方の白拍子が舞を舞います。9-382.jpg
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勝敗は手前に置かれた松の台に鶴、亀を乗せていって、表されます。
三戦目は、「持(じ)」(引き分け)となりました。9-380.jpg9-379.jpg9-378.jpg

左方の歌をもう一度聞きたいという事で、左方の白拍子が舞います。9-377.jpg9-376.jpg9-375.jpg
最後四番目の歌人が歌を披露。9-374.jpg

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ここまでが、宴座(えんのざ)と呼ばれる正式のあらたまった宴。ここから、穏座(おんのざ)という式後のくつろいだ宴となりました。9-371.jpg
今様と白拍子の舞「きくに心のすむものは」9-370.jpg9-369.jpg9-368.jpg9-367.jpg9-366.jpg
最後に、後白河院編纂の「梁塵秘抄」から 遊びをせんとや 生まれけむ~♪の歌を観客含め全員で詠ってお開きとなりました。9-365.jpg
雅な会を満喫しました。欲を言えば、後白河院(松田翔太)もいらしてたら良かったのに~なんて思ってしまいました。

2013年08月08日

勧修寺 蓮・象鼻杯

山科の勧修寺へ、蓮を見に出掛けました。8-156.jpg
入口には、鉢植えの蓮が並べられていました。8-123.jpg

中門を入ると、宸殿が芝生の向こう側に見えます。8-155.jpg
臥龍の老梅8-154.jpg
水戸光圀公 寄進による勧修寺型 灯篭8-153.jpg
観音堂8-152.jpg
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氷室池は、蓮でいっぱいになっていました。8-150.jpg8-149.jpg8-148.jpg8-147.jpg
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この勧修寺は、昌泰3年(900年) 醍醐天皇が母(藤原胤子)の菩提を弔うために創建されたという事です。
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平安時代には、毎年1月2日、この池に張る氷を宮中に献上し、その氷に厚さでその年の五穀豊凶を占ったと云われています。8-144.jpg
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野鳥が多いという話でしたが、お出かけ中なのか、さっぱりです。8-136.jpg
鯉のエサをもってくればよかったかしらん。8-135.jpg
奥の方は危険なので、自己責任で進むようにといった注意書きがあります。8-134.jpg8-133.jpg8-132.jpg
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野鳥発見!っと思いきや、カラスでした。カラスも野鳥ではありますが・・・。8-125.jpg8-124.jpg

山門横では、地元住民らでつくる「勧修寺万灯会」が、初めて「象鼻杯」を企画されていました。8月17日までの土日(午前10時~正午)、参拝者にハスの香りがする日本酒(300円)やスポーツドリンク(200円)を味わってもらうという催しです。
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実はこれが一番の目的でしたので、さっそく頂きました。8-138.jpg
ちょっと吸ってみると、どんどん茎を降りてきます。え~、止まってくれなくて、一気飲み?!日本酒の味はしましたが、蓮の香りは?分からないうちに飲み干してしまいました(^^;)8-140.jpg
こちらはスポーツドリンク。吸うと、ぷくぷく泡が出ます。8-139.jpg
取り敢えず、初体験出来て、満足でした。


2013年08月06日

京の夏の旅 2013 長谷川家住宅

京の夏の旅 2013 2つ目は、長谷川家住宅です。8-163.jpg

農業地帯として発展していた京都市南区の東九条の地で、室町時代から代々農業を営んできた長谷川家住宅は、築270年になります。平成23年から修復工事をされ、地域の交流の場となっています。8-162.jpg
二階建ての農家の住宅ですが、地主で、庄屋を務めていたこともあって、京町屋の影響を受けた造りとなっているそうです。8-159.jpg8-158.jpg
土間は、今回の修復で明治10年頃の状態へと再現されました。
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他の部屋は撮影不可となっていました。1階の座敷は、禁門の変の際、長州藩を追って南下してきた会津軍の兵士が投宿していたそうで、床柱に武具のこすれた跡が残っていました。その際の宿賃代わり?の掛け軸も展示されていました。

1864年の長州征伐の折、会津軍が竹田街道を南下していった様子を描いた絵巻物も飾られていました。
10代当主の長谷川清之進さんが13歳のときに描いたものだそうです。
2階は、水彩画家でもあった11代当主長谷川良雄の風景画などが展示されていました。
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どんどん伝統ある建物が失われていく中で、修復して残そうと努められている努力が感じられました。

2013年05月01日

鳥羽水環境保全センター 一般公開

4月27日(土曜日)~4月30日(火曜日)まで、鳥羽水環境保全センターの一般公開が行われていました。
下水処理施設見学やイベント、全長120メートルに及ぶ藤棚があります。 
この時期は毎年、牡丹を追っかけていて、藤の花を見そびれてしまうので、今年は、藤の花に焦点をあてようと考えていました。8-436.jpg
想像以上の人出で、京都駅からの臨時バスやマイカーの駐車場空き待ちで入口は混雑、入って見ると施設内移動用市バスも、次々に発着と、ゴールデンウイークを実感しました。
藤棚の下はこんな感じです。
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奥の大きな藤棚の下には、木のベンチがあり、ランチタイムの人々で賑わっていました。時折、下水処理の匂いがするのが難点ですが・・・。8-431.jpg
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ともあれ、圧巻の藤棚を見る事が出来、満足でした。8-426.jpg

2013年04月30日

城南宮 曲水の宴

4月29日 城南宮で、曲水の宴が催されました。平安貴族の雅な歌会を再現したこの宴はこれまで、テレビでしか見たことがなかったので、休日と重なったを幸いと見学に出掛けました。流水に水鳥、金泥色紙道長取りの着物に藤の帯を締めてみました。8-391.jpg
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2時からの宴ですが、1時間前には椅子席はもちろんの事、立ち見の通路も身動きとれないような平安の庭です。背の高い木々が多くて、日差しが直接差し掛からないのが何よりの、暖かすぎるお天気です。8-424.jpg8-425.jpg8-423.jpg
琴の演奏と説明を聴きながら待つこと1時間、笛の音が聴こえてきて御一同の入場です。8-422.jpg8-421.jpg8-420.jpg8-419.jpg8-418.jpg
それぞれ、所定の位置に着かれました。
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歌人たちは、狩衣(かりぎぬ)や小袿(こうちぎ)といった装束です。8-416.jpg
本日のお題が発表されます。「海辺春朝(うみべのはるのあさ)」です。8-415.jpg
歌人たちは水辺の席へと、それぞれ向かいます。8-414.jpg
小袿の裾は、お付の人が整えます。8-413.jpg8-412.jpg8-411.jpg
まずは白拍子の舞8-410.jpg8-409.jpg8-408.jpg8-407.jpg

川上に控えた水干姿の童子が神酒の注がれた朱塗りの盃を羽觴(うしょう、おしどりの姿を象った盃台)の背に載せて流します。8-406.jpg
歌人たちは、墨を摺り、和歌を短冊にしたためます。8-405.jpg8-404.jpg
和歌を詠んだしるしに、目の前に流れ来る羽觴を取り上げ、盃のお酒をいただきます。8-403.jpg8-402.jpg
引っかかった羽觴を、流し直すのも童子の役目です。8-400.jpg8-399.jpg
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短冊を集め、一句ずつお披露目です。8-401.jpg8-396.jpg
雅な宴を堪能しました。
通路を隔てた室町・桃山の庭は、また趣が違って、ツツジや藤が花盛りでした。8-395.jpg8-394.jpg8-393.jpg
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以前に描いたイラストです。kyokusuinoen.gif

2013年04月04日

2013 京の桜 醍醐寺

4月1日 本日は晴天なり
お友達と着物で花見に出掛けました。題して、「細雪ごっこ」です。映画化された谷崎潤一郎の長編小説の中で、四姉妹が着物姿で京都へ花見に出掛けるシーンがあります。それを真似た女子会のお遊びです。桜柄の小紋に石庭の名古屋帯にしてみました。7-232.jpg
二条城南側の公園の桜も満開です。7-231.jpg
短冊がぶらさがっていました。7-230.jpg7-229.jpg
地下鉄利用で、醍醐寺へ7-228.jpg
門前の紅枝垂れは花盛り、もうすぐ満開です。
三宝院の枝垂れは満開を少しばかり過ぎていましたが、美しさを保っていました。
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霊宝館前の桜のトンネル7-224.jpg
ランチは、醍醐寺内の雨月恩賜館にて桜弁当を頂きました。こちらは、昭和4年に宮内省より下賜され、京都御所より移築した由緒ある建物だという話です。7-223.jpg
霊宝館から、きらびやかな勅使門を眺め
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細雪の役どころでは、差し詰め、長女の鶴子といったところかしらん?当時は携帯なかったけど…。7-221.jpg
遅咲きの八重桜まで、咲いています。7-220.jpg7-219.jpg
奥の枝垂れはやはり終わっていました。先週来れたらちょうどだったのですけどね。7-218.jpg
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奥の方まで、回っていると、次に行けなくなってしまうので、秀吉の醍醐の花見を想像しつつ、醍醐寺を後にしました。


2012年10月19日

泉涌寺 舎利殿

10月13日~28日まで、御寺 泉涌寺にて12年に一度の特別公開「舎利殿特別御開帳並びに鳴龍体験」と題して、舎利殿が公開されています。7-690.jpg

こちらは、佛舎利を欲しかった足疾鬼(そくしっき)の執心であると言う男が舎利を奪って虚空に飛び去ろうとするところに、韋駄天が現れ、足疾鬼を追いつめ佛舎利を取り返すという能の演目「舎利」の舞台として興味深いものがあり、急ぎ行ってきました。
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舎利殿7-688.jpg
本尊:『仏牙舎利』の向かって左側に脇佛 月蓋長者像、右側に韋駄天像が安置されていました。今も韋駄天が守っているのですね。
天井を蹴破って虚空に飛び去る足疾鬼を思い描いて、天井を見上げるとそこには、狩野山雪作の『蟠龍図』がありました。佛舎利を盗まれないよう見張っているのかしらんと思っていた坊さんが、「こちらに立って手を叩いてください。」と足元の印しを指さされました。「鳴龍」体験の説明のために立ってらしたのですね。7-686.jpg
相国寺では、何度か試してみたけれど反響音がよくわからなかったのですが、こちらではばっちり聞く事ができました。

2012年08月22日

京都タワー展望台

8月20日 京都タワーホテルのビアガーデンに行ってきました。月・火曜日はレディースデイという事で、結構女性が多かったです。外人さんもそれ以上に多くて、賑わっていました。帰りがけにタワー展望台に上がってみました。子供の頃以来なので、ウン十年ぶりです。コンパクトカメラで撮ってみました。
北側7-756.jpg

我が家の方向7-754.jpg

南側7-755.jpg
南側はこんなに明るく開けたのですね。昔は暗かったような・・・。

東寺の五重塔7-753.jpg

蜘蛛が綺麗な網目を作っていました。ぼけてますけど・・・。
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2012年05月11日

2012 春の特別拝観 法性寺

東山区本町にある法性寺は、藤原忠平が建立したお寺で、藤原氏の隆盛と共に栄え、広大な敷地を所有していましたが、現在は小さな尼寺となっています。6-107.jpg
関白 藤原忠通が、この寺に入り「法性寺殿」と呼ばれていました。6-105.jpg

本尊の千手観音は28面のお顔を持ってらっしゃいます。暗くてわかりにくいのですが、とても気品にあふれたお顔立ちをしてらっしゃいました。6-106.jpg

藤原忠通の念持仏も安置されていました。

藤原道長の時に、壮大な五大堂を境内に造営し、五大明王が祀られていました。
現在、東福寺の塔頭 同聚院の建つあたりが五大堂の遺跡付近だったといわれています。
法性寺が衰退した後も、幾多の災難を乗り越えて残った不動明王像が同聚院に本尊として祀られています。
現在、法性寺では、その不動明王像のコピーが安置されています。

2012年04月22日

2012 京の桜 安楽寿院と御陵・西行寺跡

4月10日 城南宮を出て東へ、伏見区竹田にある安楽寿院に立ち寄りました。このあたり一帯は、応徳3年(1086)、白河上皇が鳥羽離宮を造営、周辺に寺院や院御所を建て「あたかも都遷りのごとし」といわれたほどの華やかな貴族文化の舞台でした。6-368.jpg
鳥羽天皇は譲位後、鳥羽離宮に入り、殿舎や仏殿を増築しました。その際この石の上に冠を置き,これを中心に造営したと伝えられています。6-369.jpg

保延3年(1137)鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇により、御堂が建てられました。それがこちらの安楽寿院の起源です。6-366.jpg

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そして、その周辺には、御陵があります。
白河天皇成菩提院陵6-373.jpg6-372.jpg

鳥羽天皇安楽寿院陵6-371.jpg6-370.jpg
近衛天皇安楽寿院南陵6-361.jpg6-360.jpg
白河天皇陵の北の方に西行が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられている場所があります。江戸時代には庵室(西行寺)があり、境内には月見池・剃髪堂があったということです。明治11年(1878)観音寺(伏見区竹田内畑町)に併合されました。この石標は西行寺の跡を示しています。
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2012年04月21日

2012 京の桜 城南宮

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城南宮は、昭和の終戦前は真幡寸神社と呼ばれていたそうです。白河天皇の城南離宮造営に伴って、真幡寸神社は、古くからあった城南寺やこの離宮の鎮守社とされ、多くの神々が併せ祀られていました。戦後、別雷神と火雷神を真幡寸神社として、社務所北の別殿に祀り、他の祭神を本殿にまとめて城南宮と呼ぶことにしたという話です。6-385.jpg
桃山の庭6-384.jpg6-383.jpg
お抹茶を頂きながら、お庭の枝垂れ桜を眺める事ができます。6-382.jpg6-380.jpg6-379.jpg
掛け軸の書は、後で調べたところ、「千載集 巻十:賀」にある歌でした。

堀河院御時、鳥羽殿に行幸の日、池上花といへる心をよみ侍りける
                           権中納言俊忠 

千とせすむ 池のみきはの やへさくら 
かけさヘそこに かさねてそみる
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桜の香る羊羹でした。写真撮る前に食べてしまい、食べかけで、すみません。6-381.jpg
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満開には少し早かったですが、空いていて のどかな時間を持てました。6-376.jpg6-375.jpg
黒椿6-374.jpg

2011年04月17日

京都の桜 2011 東寺ライトアップ

4月7日 東寺さんが今年は被災地への祈りをこめて、ライトアップされるというので、出掛けてきました。185.jpg
不二桜と五重塔 東北生まれのこの枝垂れ桜は、五重塔に合わせたかのように、とても背が高くて、珍しいです。
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不二桜の横の茶店で、お菓子を戴いて、まったりしました。これで、300円です。069.jpg
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名残を惜しみつつ、帰路に着きました。065.jpg

2011年04月08日

京都の桜 2011 東寺ライトアップ 速報

4月7日 雨の降る前にと、東寺ライトアップを見てきました。185.jpg
写真の桜は岩手県の旧家で育てられ、平成6年秋田県を経て、三重県鈴鹿市の農園が譲り受けて大切に育てていたのを、信徒総代より寄贈され、直径15メートルの円形花壇に移植されたものです。名前は弘法大師の不二の教えから「不二桜」と命名されたという事です。東北からやってきた桜なんですね。満開には少し早いぐらいで見頃でした。このライトアップの拝観料の一部は震災の義援金となるようです。17日までです。

2010年11月12日

『マザーウォーター』 ロケ地めぐり その2

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『マザーウォーター』の映画の中で、マコト(もたいまさこ)が水汲みをするのが、伏見区深草の藤森神社の「不二の水」です。
他のロケ地からは、やや離れている感じですが、他の神社の名水より映像的にいい感じだったのでしょうかね。639.jpg
勝運・学問と馬の神社として、崇められています。約1800年前に、神功皇后によって創建されたそうですから、平安遷都以前からあった古い神社です。638.jpg
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こちらが、二つとないという意味で不二の水と言われる御神水で、地下約100メートルから湧き出ているそうです。
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近所の神社にポプラくんと一緒に水汲みにやってきたといった風情で、使われていました。623.jpg
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私も戴いてみました。633.jpg
美味しいお水です。すぐ横は、旗塚と呼ばれ、大きな木の株が安置されています。神功皇后が三韓征伐から凱旋した後、この藤森の地を聖地として軍旗の中で一番大きい旗を立て、武具を納め神祀を行った所だそうで、この木の株をさすり祈ると腰痛が治るようです。近藤勇もたびたび訪れたという話です。632.jpg
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2010年11月08日

『マザーウォーター』 ロケ地めぐり その1

『マザーウォーター』を観ながら、どうしても気になったのが、撮影された場所です。此処ってあのあたりかしらん?などとあれこれ考えて、探してみたくなりました。ネットで調べてみると、同じ事を考える人が結構いるようで、情報も入手できました。

ロケ地めぐり その1 おとめ湯648.jpg

レトロな外観が特徴的なその銭湯は、テレビでも紹介され、HPでもロケ地であることが案内されている南区西九条唐橋町の「日の出湯」さんです。
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東寺道の路地を入ったところに、不意に異空間に ぽそっと、入り込んでしまったのか、はたまたタイムスリップしてしまったのかといった感じに、現れます。649.jpg
映画の中で使われた暖簾が期間限定で掛かっていて、たまりませんね(^^)同じようにロケ地めぐりをしている方に出会い、情報交換なんかもしてしまいました。

2010年07月01日

浮世絵 にゃんとも猫だらけ展 2

昨日よりのつづき

月岡芳年 「東京自慢十二ヶ月 六月入谷の朝皃 新ばし 福助」p6673.jpg
着物が猫柄です。

年峰 「口絵 京の猫」p6672.jpg
京の夕涼みの風情がなんともいいですね。この時代特有の鹿の子や緋縮緬などの首輪がまた可愛さを引き立てますね。

歌川国芳 「五拾三次之内 岡崎の場 三桝源之助の白須賀十右衛門 三代目尾上菊五郎の猫石の怪 十二代目市村羽左衛門のいなば之助」p6671.jpg
いわゆる化け猫です。

浮世絵版画ばかりなので小さい作品ですが、120点もあるので結構な量と質です。江戸の人々の猫との暮らしぶりが窺えて、楽しい展覧会でした。
なお次回は7月15日から、「画業15周年記念 片岡鶴太郎展」です。p6669.jpg

2010年06月30日

浮世絵 にゃんとも猫だらけ展

美術館「えき」KYOTOにて、7月11日まで開催中の『浮世絵 にゃんとも猫だらけ展』を観て来ました。p6676.jpg
作品はパンフレットよりの転載です。
歌川国芳を中心に、浮世絵の中に描かれた猫をテーマとした展覧会です。p6675.jpg
歌川国芳 「山海愛度圖會 七 ヲゝいたい 越中滑川大蛸」 
歌川国芳さんは無類の猫好きだったそうで、画面にも猫がよく登場しています。p6674.jpg
歌川広重 「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」
今も昔も猫は身近に愛されてきた存在ですね。p6670.jpg
歌川芳藤 「流好温泉の圖」
擬人化された猫も多く描かれています。

明日につづく

2010年06月09日

第61回京都薪能 -舎利(金剛流能)-

薪能 最後の演目は金剛流能の「舎利」でした。陽も とっぷりと暮れて薪の暖かさが心地よく感じられました。p6802.jpg
この演目の舞台となるのは、泉涌寺の舎利殿で、2月に訪れ、謡曲の場面を想像して、その気分を満喫したばかりでしたから、イメージも膨らみやすかったです。p7697.jpgp7696.jpg
あらすじは2月の泉涌寺 舎利殿のページをご覧下さい。http://www.zuzu.bz/ownerblog/2010/02/post_461.html
泉涌寺の舎利殿は、開山俊律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228年)に宋朝より将来し遷座した貴重な霊殿です。足疾鬼がこの仏舎利を奪い取って逃げるのですが、この舎利信仰というものが、不信心な私には今一ぴんとこないところなのです。
そもそも仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵を指すもので、お寿司屋さんの「しゃり」の語源でもあるといいます。
日本に仏教が伝わった時には仏像や経典が中心であったようで、その後の日本書紀の記述で舎利を納めた事も記されています。その後、空海が大量の仏舎利を持ち帰って以降、日本において仏舎利信仰が再燃したようです。ふーんとか思っていたのですが、先日「鬼龍院花子の生涯」を久しぶりにテレビドラマバージョンで見て、ちょっとその信仰の理解への糸口をつかんだように感じました。

名セリフ「なめたらいかんぜよ!」と観月ありさが言い放って、警官を払いのけ立ち去るシーンですが、死んだ恋人の遺骨を分けてもらいたいと庭に土下座して頼む松枝に、すげなく追い出そうとする遺族。
啖呵を切ってその場を立ち去るも、どうしても遺骨がほしかった松枝の気持ち、死んだ兄の気持ちを察し、妹が追いかけてきて、分けとった遺骨を差し出す場面。
恋人の遺骨なら、どうしてもほしいという気持ちは理解できますね。恋人の遺骨とお釈迦様の遺骨では、ちょっと違うかもしれませんが、ニュアンスはつかめた様な?

2010年02月26日

悲田院

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設の事で、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とされています。

養老7年(723)には、奈良・興福寺内に施薬院と共に設けられました。平安京にも、病人や孤児の収容所として、東西2カ所の悲田院が建てられました。
東は鴨川の西畔 三条河原、西は上京区扇町児童公園付近にありました。p7581.jpg
壇林皇后の建てた西の悲田院は、応仁の乱で廃墟となり、その址に天正14年(1586)、虚応和尚が由緒あるこの場所を惜しんで建てたのが大応寺です。大応寺は臨済宗相国寺派に属しています。
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正保2年(1645)に悲田院は、皇室と泉涌寺との関係から、泉涌寺(東山区)に移りました。p7590.jpg
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境内からは、市内を一望できます。
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2010年02月19日

屋島の戦い

平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)は、屋島の戦いの日です。
『平家物語』の名場面、「扇の的」のシーンは有名です。
那須与一が海に馬を乗り入れ、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、鏑矢を放つ。矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い、海に落ちたというものです。

泉涌寺の塔頭 即成院にその墓があります。p7662.jpgp7661.jpg
与一は、出陣の途中で病気になり、即成院に参拝したところ平癒し、屋島の戦いで功績を得たことで仏徳を感じて出家し、即成院に庵を建ててそこで死去したといわれています。
ただ、那須与一に関しては諸説あり、あまり定かではないようです。
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2010年02月18日

後堀河天皇と御苑の梅

建暦2年2月18日(1212年3月22日) 高倉天皇の第二皇子の守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子 茂仁(とよひと)後の後堀河天皇が生まれました。
承久の変で後鳥羽上皇らが流刑された後、10才で鎌倉幕府による推挙で天皇となりました。父親の守貞親王(行助)が後高倉院として、院政を行いました。貞永元年(1232年)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しましたが、元来、病弱であったためか、2年足らずの天福2年(1234年)に23才で崩御されました。泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送されました。p7665.jpg
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孝明天皇の御陵へ向かう途中の山道を左に上ったところに御陵があります。p7677.jpgp7663.jpg
在位中の皇居は現在の京都御所です。御苑の梅が少し咲き始めています。p7672.jpgp7671.jpg
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あいにく、やっと雨が上ったばかりの曇り空でしたが・・・。
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2010年02月16日

京の冬の旅 2010 泉涌寺 御座所・霊明殿

-京の冬の旅 2010- 4箇所目は、泉涌寺 御座所・霊明殿に出掛けました。
孝明天皇の位牌を祀る皇室の菩提所ということで、幕末シリーズとしての公開です。
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この御座所は、明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失したため、明治天皇が、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿を移されたものです。文化15年(1818)に造営されたものの移築ということです。現在も皇族の方が休憩時に使われているそうです。
六室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼ばれています。それぞれに趣向を凝らした襖絵が飾られています。
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昭和天皇がここの庭を眺めて歌を詠まれたそうです。
春ふけて 雨のそぼふる いけ水に 
       かじかなくなり ここ泉涌寺
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明治17年、明治天皇によって再建された霊明殿には、四条天皇御尊像(木像)と御尊牌をはじめ、歴代の天皇の御尊牌が祀られています。ちょっと、空気感が違うような。

海会堂は京都御所内の御黒戸を移築したもので、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られているそうですが、距離があって暗くて、わかりませんでした。

2010年02月14日

孝明天皇 御陵

弘化3年2月13日(1846年3月10日)、平安京最後の天皇「孝明天皇」が践祚されました。p7675.jpg

多難な国事に直面され、公武合体の維持を望まれたまま、慶応2年12月25日(1867年1月30日)、崩御されました。
享年36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されましたが、毒殺説もあります。
御陵は、後光明天皇以来の火葬、仏式葬の石塔から山陵に土葬される古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれました。p7677.jpgp7679.jpg
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父である仁孝天皇と孝明天皇の念持仏が、御所の御黒戸内より、泉涌寺に移され安置されています。
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平安京最初の天皇である第50代桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年)、皇紀2600年を記念して第121代孝明天皇が合祀されています。p8537.jpg

2010年02月13日

清少納言 歌碑

泉涌寺 仏殿横 四條天皇御陵へ向かう参道横には、浴室があります。p7688.jpg

その隣に寺名の起源となった名泉が、涌き出ていて、それを覆う屋形は、仏殿と同じ寛文期の建物だそうです。p7687.jpg
そのまた隣に、清少納言の歌碑が建てられています。p7686.jpgp7685.jpg
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも
     よに逢坂の 関はゆるさじ

百人一首に入っているこの歌が刻まれています。定子皇后の鳥辺野陵に近く、かつてここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所とされているために、昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立されたそうです。

若くして定子が亡くなられて、宮仕えを辞めた清少納言のその後は、定かではなく、いろいろな話がありますが、定子の御陵ちかくで、静かに晩年を過ごしたと思いたい・・・。

2010年02月12日

四條天皇 御陵

承久3年(1221年)、承久の乱(鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて後鳥羽天皇が敗れた兵乱)により、鎌倉幕府は、後鳥羽天皇につながる血統をことごとく排除し、仲恭天皇を退位させ、安徳天皇の弟の子であり高倉天皇の孫である、隠居していた後堀河天皇(10歳)を即位させました。
寛喜3年2月12日(1231年3月17日)後堀河天皇の第一皇子が一条室町邸で生まれました。後の四条天皇です。
貞永元年(1232年)、後堀河天皇は院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しますが、天福2年(1234年)に23歳で崩御してしまいます。四条天皇の外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上政務を行ないました。

四条天皇は、鎌倉幕府にとっては、後鳥羽上皇の血統でない、かけがえのない天皇であったのですが、皇子・皇女を作らないままに、仁治3年1月9日(1242年2月10日)崩御してしまいます。享年12。p7692.jpg
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「主上あどけなくわたらせ給ひて、近習の人、女房などを倒して笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、主上あしくして御顛倒ありける……。」(五代帝王物語 )

四条天皇は女官などを滑らせて笑ってやろうとして蝋石を塗っていたところ、自分が滑って転倒し、頭を打って数日寝込んで、そのまま亡くなっってしまったというのです。なんとも、12歳の少年らしいいたずらですが・・・。
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後堀河天皇が泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送された縁もあってか、四條天皇が、泉涌寺を再興した俊芿の生まれ変わりとする説のためかはともかく、泉涌寺において、御大葬が行われ、泉涌寺の寺内地の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。p7689.jpg
この御陵には四條天皇を初めとして、後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。

2010年02月11日

泉涌寺 舎利殿

空海が草庵を建てたのが始まりといわれる、真言宗の古刹 泉涌寺は、皇室ゆかりの寺で、その静かな佇まいは雪が似合います。もっとも、出掛けるのが遅くて、ほとんど融けていますが・・・。
総門p7701.jpg
大門p7699.jpgp7700.jpg

大門を潜って、仏殿へとp7702.jpg
応仁の乱でほとんど焼失し、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建されたものです。
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運慶作と伝える阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されていますが、弥勒様が修復中で、いらっしゃいませんでした。

舎利殿p7697.jpgp7696.jpg
出雲国美保の関の僧が、京に上って、十六羅漢・仏舎利を拝もうと東山の泉涌寺に参詣します。
寺男の案内で、仏舎利を礼拝していると、そこに里の男が現れ、ともに仏舎利を拝みます。仏舎利のありがたい謂れなどを語るうちに、空が突然かき曇り、稲妻が走ります。
男の面色が急に変わり、自分はこの舎利を望んでいた、昔の足疾鬼の執心であると言い、仏舎利を奪い、天井を蹴破って虚空に飛び去ります。
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僧は、物音に驚いて駆けつけた寺の僧から、釈迦入滅の時、足疾鬼という外道が、釈迦の歯を盗んで飛び去ったが、韋駄天という毘沙門の弟の足の速い仏が取り返した、という話を聞きます。そして、二人して韋駄天に祈ると、やがて韋駄天が現れ、足疾鬼を天上界に追い上げ、下界に追いつめ、仏舎利を取り返します。足疾鬼は、今は力も尽き果てて、失せにけれ~。p7694.jpg
場面を想像し、足疾鬼を追いかけて、舎利殿を一周。しばらく、楽しめてしまいました(^^)

 


2010年01月26日

京の冬の旅 2010 東寺 小子房

京の冬の旅 2010 では、東寺は五重塔の他に、小子房の特別拝観があります。講堂の西側にある本房の南隣です。
本房p7758.jpg
左へp7757.jpgp7753.jpg
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小子房は昭和9年に再建された建物です。p7756.jpg
庭は、7代目小川治兵衛によるものです。庭の奥に蓮華門があります。弘法大師は晩年、この門から、高野山に向かったそうです。隠棲のため、東寺を後にする空海を念持仏として山院に祀っていた不動明王が、見送りに現れたそうです。その足元は道に蓮華の花が咲いたことから、この門を蓮華門と呼ぶようになったそうです。
内部を飾っているのは、日本画家・堂本印象の襖絵です。5室には水墨画が、奥の「勅使の間」には金箔地に極彩色の絵が描かれ、御修法時に天皇の御衣を入れる唐櫃も展示されています。
勅使門p7755.jpg
この門の正面の部屋は鷲が描かれている「鷲の間」。その他の部屋は「牡丹の間」「瓜の間」「枇杷の間」「雛鶏の間」の水墨画が和める感じです。「勅使の間」だけが、雅やかに光り輝いている感じです。p7752.jpg
かつては、後宇多法王や光厳上皇が住まいされていたこともあったそうです。

2010年01月23日

寺田屋 龍馬襲撃

慶応2年1月21日(1866年)薩摩藩と長州藩の間で同盟が結ばれました。p7763.jpg
長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)が、その一切の約定を記した書状を坂本竜馬に送り、裏書を求めました。約定に間違いないという朱筆の裏書を、龍馬が書き記したものが、宮内庁書陵部に現存してます。この裏書を書く前に、龍馬は、襲われているようです。
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慶応2年1月23日、伏見の寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとしました。p7778.jpg
女将のお登勢
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異変に気づいた入浴中のお龍は、p7767.jpg
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裏階段を駆け上がり、p7776.jpg
龍馬たちに急を知らせました。
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龍馬は所持したピストルを利用して多数の捕り方相手に大乱闘となり、p7762.jpg
手傷を負いながら も屋根づたいに逃げ、川端の材木小屋に隠れました。
一緒に逃げた長州藩士の三吉慎蔵は、あまりの捕り方の多さに、もはやこれまでと切腹しようとしましたが、龍馬はこれを押し留めて伏見薩摩藩邸に駆け込むように指示し、龍馬は手傷を負っていることもあり、その場で救援を待ちました。
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知らせを聞いた藩邸では、濠川(ほりかわ)沿いに舟を出し、p7764.jpg
龍馬を救助して伏見薩摩藩邸に匿いました。

*幕末当時の寺田屋の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると結論づけられました。p7772.jpg
事件の「弾痕」「刀傷」跡の再現?p7771.jpg
ピストルのレプリカp7773.jpg
この寺田屋は、現在も宿泊可能ですが、防犯問題が発生するだろうと、探してみたら、ありました。p7761.jpg
柱上部や、下部に、近代的な?鍵がついていました。これは、龍馬の時代にはなかったであろうと思います。

京都市の市有地となっている東隣の寺田屋跡地には、石碑や像などが建てられています。p7769.jpg

高知では、「土佐・龍馬であい博」が始まりよったそうです(^^)
あちらの友人によると、「まだちょっと、エンジンかかりよらん感じなが~。」ということでした。
龍馬伝については、「龍馬は、ちくっとイントネーションが可笑しいけんど、他の人は上手に話しゆうね。」と、言うちょりました。

2009年12月26日

綜芸種智院

天長5(828年)12月 空海が九条坊門南・西洞院西に綜芸種智院を創建しました。

庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、藤原三守から譲り受けた京都の左京九条の邸宅に設置した私立学校です。身分上大学や国学に入れない者のために設立されましたが、空海没後は後継者がなく廃絶しました。
南区西九条池ノ内町(西福寺前) に石碑が建っています。p7852.jpgp7853.jpg
実際はこの地よりも南東、九条弘道小学校附近にあったということです。


2009年12月24日

終い弘法

12月21日 終い弘法さんに立ち寄りました。p7863.jpgp7862.jpgp7861.jpgp7860.jpg
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大勢の人で賑わっていました。なにやら気忙しくて、収穫は、なしでした。

2009年10月17日

阿仏尼

弘安2年(1279年)10月16日、阿仏尼は相続問題を幕府に訴訟するため、鎌倉へ下りました。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記した日記が、後に「十六夜日記」と呼ばれるようになりました。
訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説があります。

平度繁(たいらののりしげ)の養女であった阿仏尼は、安嘉門院に仕え、女房名を安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)といいました。

10代の頃、失恋のショックから出家しましたが、30歳頃藤原為家の側室となり、嵯峨中院山荘に為家と同棲して為相・為守らを産むこととなります。

藤原定家の子 為家は後嵯峨院歌壇の中心的な歌人として活躍していましたが、正妻 宇都宮蓮生の娘との間に為氏、源承、為教ほか数人の子供がありました。

為相が生まれた弘長3年(1263)には為家66歳、嫡子である為氏は42歳、阿仏尼も為氏とほぼ同年齢であったと推定されています。

為家は年老いてから生まれた為相を可愛がり、嫡子為氏に不孝行為があったとして義絶、為氏に譲っていた播磨国細河荘を悔返し、為相に譲り与えました。この時、為氏は52歳、為相は11歳でした。

為家が建治1年(1275)78歳で没した後、為氏は、細河荘の悔返と為相への譲与を不当として取り戻し、阿仏尼は公家と六波羅探題に提訴しましたが、らちがあかず、関東に下向し、直接鎌倉幕府に訴えることを決意しました。
このとき阿仏尼はすでに60近い年齢で、幼い子供たちの為に、必死の思いでの旅立ちであったのでしょう。京を出て14日目、鎌倉に着いた彼女は、月影の谷に住まいし、鎌倉武士に歌を教えながら、訴えに全てをかけましたが、裁決での勝利を得ることなく、亡くなりました。

最終的に為相のものと定まったのは、正和2年(1313)阿仏尼没後、30年のことでした。定家・俊成が書き残した和歌の本も、共に為相に託されました。

こうして、藤原北家藤原道長の6男長家を祖とする藤原氏の流、御子左家(みこひだりけ)は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立し、為家の子の代に、嫡流 二条為氏(二条家)、その弟 京極為教(京極家)、冷泉為相(冷泉家)と分かれることとなりました。

二条家・京極家の家系は南北朝時代までに断絶し、冷泉家(上冷泉家・下冷泉家)及びその庶流の入江家のみが現在残っています。

京都に残る阿仏尼の墓は、南区大宮通九条下がる東側の大通寺にあります。p8255.jpgp8257.jpgp8256.jpg
彼女が守った冷泉家が、今日まで続いている事をどのように感じているのでしょうか?

2009年06月15日

空海

宝亀5年(774年)6月15日を、真言宗の伝承では空海の誕生日をとしています。

淳和天皇の頃、全国的な旱魃や疫病の流行がありました。
天長元年(824年)東寺の空海に雨乞いの祈祷をさせようとしましたが、西寺の守敏僧都の願い出により、守敏が7日間の修法に入りました。満願の日、一天にわかに掻き曇り、大雨となりましたが、全国的な旱魃を解決できるものではなく、空海が呼び出されました。
この舞台となっているのが、二条城南側の神泉苑です。P9169.jpg
空海の祈祷を妨げようと、守敏が諸龍を封じ込めていた為、天竺より善女竜王を勧請して、祈りをささげたところ、大豪雨となり、旱魃を解消することができたそうです。P9170.jpg写真右の方に善女龍王を祀るほこらがあります。
この話はここで終わらず、恨みに思った守敏が空海を狙うようになり、ある晩、空海が羅生門前を歩いているところに、矢を放ったと言われています。矢はどこからともなく現れた僧の肩にあたり、空海は何も知らずに東寺へ、帰っていったということです。P9166.jpg
空海の危機を救ったのはお地蔵様で、「矢取地蔵」と呼ばれ、九条通の羅生門跡の公園へ向かう入り口に祀られています。P9167.jpg
肩の矢傷も痛々しいそうですが、頭巾をかぶられているので、確認できませんでした。P9165.jpg
守敏のいた西寺は、その後荒廃し、現在では、石碑と礎石が公園の丘の上に残っています。P9164.jpgP9163.jpg建保年間に証空上人が西寺を復興し、浄土宗に改宗、西方寺としたそうです。後に、また西寺と改め、現在は旧西寺跡の西北の方に位置しています。P9162.jpg

2009年06月07日

羅城門跡

東寺から、九条通を西へ200メートルぐらいの矢取地蔵さんの横を北へ入った児童公園が、羅城門の跡地と伝えられています。P9250.jpg
平安京の正門として、朱雀大路の南端に位置し、北の朱雀門と相対していました。
嘉承3年(1107年)に平正盛が源義親を討伐し、京中の男女の盛大な歓迎の中をこの門を通り帰還したという話が残っています。
正面七間、奥行二間で重層、本瓦葺、屋根の両端に金色の鴟尾(しぴ)をあげた堂々たる門で、楼上には兜跋(とばつ)毘沙門像が安置されていたということです。P9254.jpg公園内の花P9252.jpgP9251.jpg
弘仁七年(816年)8月と天元3年(980年)7月の台風によって、倒壊しました。P9253.jpg
渡辺綱が楼上の鬼の腕を切り取ったという話や、村上天皇の時代、宮中に伝わる唐渡りの琵琶「玄象」が紛失し、管弦の名人である源博雅が、玄象の音を頼りに羅生門までたどり着き、琵琶を弾いていた鬼を説得して取り戻したという話、芥川龍之介の小説や映画などで有名でそのイメージはかなり怪しい感じです。P9249.jpg

2009年04月09日

京都の桜 2009 ~山科 毘沙門堂・疎水~

4月5日 桜は、まだ満開ではなかったのですが、
観桜会が催されていたので、山科の毘沙門堂へ出掛けてみました。RIMG9781.gif
RIMG9780.gifお茶席とお琴の演奏が行なわれていて、賑わっていました。RIMG9779.gifメインの枝垂がまだもう少しといったところです。今年は開花が早かったので、催しの予定日の頃には桜は終わってしまっているのではと、懸念していましたが、結果的には、程よい加減になりました。6日の情報では、こちらも満開となっていましたので、この日の陽気で一気に花開いたのでしょう。RIMG9778.gifRIMG9775.gifRIMG9776.gifRIMG9777.gif
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RIMG9770.gif帰り道の疎水には、お弁当を広げる風景も見られました。RIMG9769.gifRIMG9768.gif
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2009年04月02日

京都の桜 2009 ~醍醐寺 霊宝館~

30日 醍醐寺の続編です。
霊宝館の中に入りました。
昨年は少し遅くて花盛りの頃を見そびれてしまったので、今年こそは!RIMG9863.gif
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一本の木というのに、このボリューム、迫力はとてもコンデジと私の力量では、伝えられるものではありません。RIMG9857.gifRIMG9856.gifRIMG9855.gifRIMG9854.gifRIMG9853.gifRIMG9852.gifRIMG9851.gifRIMG9850.gifRIMG9849.gifRIMG9848.gif紅枝垂はまだ蕾です。RIMG9847.gif
館内では、特別公開の国宝、重文の数々が展示されていて、休憩室からは、庭内奥の桜を反対側から、眺める事ができました。撮影は不可でしたけど。
展示の中に、醍醐の花見の際の和歌の短籍があり、当時の様子がどんなに華やかであったことかと、想像を駆り立てられました。

あらためて 名をかへてみむ 深雪山 
            うつもる花も あらはれにけり
                          秀吉

ともなひて 眺めにあかし 深雪山
            帰るさ惜しき 花のおも影
                           北政所
花もまた 君のためにと さきいでて
            世にならひなき 春にあうらし
                          淀殿

京都の桜 2009 ~醍醐寺 三宝院~

そうだ 京都、行こう。 
   2009年 春 醍醐寺編  してきました。
30日 月曜というのに、地下鉄醍醐寺駅からのバスは超満員。ぞろぞろと、総門をくぐりました。
一先ず、三宝院に入りました。RIMG9873.gif
RIMG9878.gifRIMG9880.gifRIMG9879.gifRIMG9877.gifRIMG9876.gifRIMG9875.gif平成17年に生育祈願記念の為、植樹されたクローン桜です。RIMG9874.gifRIMG9872a.gifRIMG9871.gifRIMG9870.gifRIMG9869.gifRIMG9868.gifRIMG9867.gifRIMG9865.gifRIMG9866.gif
参道の桜はまだこれからといったところです。RIMG9864.gif
霊宝館に向かいます。

2009年03月19日

随心院 はねずの梅

3月13日~22日まで、伝統産業の日という事で、着物姿だと、市バス・地下鉄の乗車が無料になったり、幾つかの施設の入場が無料になるというチケットをもらい、16・17日の連休は着物を着て出掛けました。
市バス・地下鉄を乗り継ぎ、小野駅まで行きました。山科も、結構近くなったものです。随心院の小野梅園までは、徒歩です。RIMG031610.gif
随心院の紅梅は薄紅色を意味する「はねず」の名で親しまれているそうです。RIMG031611.gifRIMG031612.gif
遅咲きの梅を見に、結構 観光客が訪れていました。RIMG031613.gif
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比較的小振りな花が、固まって咲いているのが多いようです。RIMG031618.gif
RIMG031619.gif 29日には、はねず踊りが催されます。「百夜通い」 の話で有名な小野小町と深草少将の物語を主題とした踊りだそうですが、まだ見たことがありません。RIMG031620.gifRIMG031621.gif
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休憩所がありましたが、お茶などはないようで、残念なところです。RIMG031624.gif
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RIMG031627.gifこじんまりとした、梅園でした。RIMG031628.gif
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小野小町が化粧に使ったという「化粧井」があります。RIMG031631.gif
お寺の方は以前に入ったことがあるので、パスして、地下鉄に乗りました。

2009年01月22日

パート2 続き

勝林寺を出て、さきほど通り過ぎた退耕庵に戻りました。せっかくここまで来たのですから、ここも覗いていくことにしました。RIMG011926.gif
こちらには、関が原の戦いを前に、西軍の石田三成と当庵11世 安国寺恵瓊(あんとくじえけい)が策議を行ったと伝わる四畳半の茶室「作夢軒」があります。用心のための忍び天井や、護衛の武士が控えたとされる「伏侍の間」を備えているところが、当時を想像すると、どきどきしてしまうところです。
お庭は、北に西湖を模したとされる池泉鑑賞式庭園、南に「真隠庭」と呼ばれる枯山水の庭園が、建物の周りをめぐるように作られています。よって、枯山水の後ろに池があるという、ちょっとおもしろい?庭になります。その他には、小野小町が作ったと伝わる「小町百才の像」や玉章地蔵尊が、安置されていることで、有名なようです。百才にもなると、美貌もどこへいったやらといった風情になってしまうのは、ちょっとこわい話です。地蔵尊のなかには、小町に宛てた恋文が納められているとのことで、なんとも艶っぽいような、無常感いっぱいのような、複雑な気持ちになりました。
帰りに、スタンプラリー接待所になっている俵屋吉富さんの京菓子資料館に立ち寄り、雲龍とお抹茶を、よばれました。(^0^)V
資料館も見学して、おみやに福豆のお菓子を買い求めました。やっぱ、京都の旅は、風情があって、いいねぇ~と自宅まで、とことこ歩いて帰りました。
こころで、スタンプラリーまた1つスタンプ増えてしまったけど、パート3は、どうしたものか?まぁ、3月18日までなので、気が向いたら、行ってみることにします。

京の冬の旅 パート2

1月20日 東福寺まで、足を延ばしました。バスの中の小冊子「おふたいむ1」の表紙に使われていた勝林寺の虎の襖絵が気になり、毘沙門天もやっぱり観ておきたいし、京の冬の旅 パート2に出掛けることにしました。JR東福寺駅から、大体の方角に歩いていくと、ところどころに表示があり、なんとなくたどり着きました。RIMG011923.gifちょっと北のはずれにあるため、矢印がないときっと、わかりにくかっただろうと思われます。毘沙門天さんは、北の守り神だから、東福寺の北側にあるとのことで、なるほど、そうゆう事かと納得しました。鞍馬も京の北にあり、毘沙門天さんを祀ってありますからね。RIMG011925.gif
受付で、妙心寺でもらったスタンプラリーを差し出すと、「はい、卒業ですね」と3つ目のスタンプを押してくれました。
これで、どこかで、ちょっと一服のお茶の接待が受けられます(^^)011928.gif初公開の毘沙門天は、薄暗くて、お顔までははっきりわからないのが、とっても残念でした。ガクトが大河ドラマで、上杉謙信を演じて以来、すぐ感化されてしまう私は、ちょっと毘沙門天を崇拝したい気分なので、これからほかのところもたずねてみようと思います。鞍馬も、山科の毘沙門堂も行ったことがないものですから…。
RIMG011924.gifお目当ての虎の大襖絵(櫟 文峰 作)は、間近に観る事ができました。
橋本関雪に師事されていたようで、古い絵のように猫のような虎でなく、かなりリアルに細かい描写の迫力ある襖絵でした。もちろん写真不可ですが、色紙を買ったので、その写しを公開します。011927.gif襖自体が、波打ってしまっているので、修復する必要があるように思います。この1頭の虎は、毘沙門天を表しているそうです。反対側に2頭の虎も描かれていて、そちらは、毘沙門天の奥さんにあたる吉祥天と子供にあたる善膩師童子(ぜんにしどうじ)を表しているそうです。他にどのような絵を残されてるのか、観て見たいという気持ちになりました。