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2009年06月30日

夏越 (なごし) の祓

6月30日は、ちょうど1年の半分の終わりです。半年分の穢れを祓う日です。
多くの神社では、「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われます。P9022.jpg
写真は左京区聖護院の熊野神社です。P9021.jpg
茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものです。
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人の形に切り取られた「人形(ひとがた)」に名前や年齢を書き込み、息を3回吹きかけ、
穢れ(けがれ)を移し、神社に納められたり、川に流されたりします。
写真は町内に回ってくる、水火天満宮の人形です。

そして、京都では、「水無月」を食べます。P9020.jpg
宮中で、冬の間に氷室に保存しておいた氷を切り出して、口にして暑気を払う行事が行われていたことに由来しているので、三角形をしています。
近頃では、抹茶味や、黒糖味もあり、私の大好きなお菓子です。P9019.jpg

2009年06月29日

渉成園 鴨 その1

6月22日 睡蓮を撮っていると、鴨が近づいてきました。P9051.jpg
何してんの~?P9050.jpg睡蓮の写真?P9049.jpg
ふ~ん。P9048.jpg面白いかなぁ~?P9047.jpg
う~ん、わからへんわぁ。P9045.jpg
ほな、またねぇ。P9046.jpg行くわ!P9042.jpg〈待ってぇ~。〉と声をかけると、P9044.jpg何?P9043.jpg〈もっと写真撮らしてくれへん?〉
はい、ポーズ。P9041.jpg
〈動きがないなぁ。)
ほな、歩こか~。P9040.jpgこんなんは~。P9039.jpgどや、見返り美人やろ?P9038.jpg
人慣れした鴨に遊んでもらいました。次回に続く・・・。

2009年06月28日

高山彦九郎

寛政5年6月28日(1793年8月4日)、江戸時代後期の尊皇思想家である高山彦九郎が自刃しています。享年46歳でした。P9054.jpg
高山彦九郎という人のことは、殆ど知らないのですが、三条京阪にある銅像は、よく知っています。
子供の頃、父親に聞いた記憶があります。
「あの人、何したはるの?」
「御所、拝んだはるんや。」
「ふ~ん?」P9052.jpg
以来、大変そうな顔して御所の方 向いて座ったはる人 というのが、私の認識のすべてです。
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この銅像は、2代目だそうです。初代は1928年に作られたようですが、1944年11月の金属回収令で供出され、現在の銅像は1961年の再建だそうです。東側にあるのが初代の台座跡です。ですから、私は、物心ついた頃より、今の銅像を眺めていることになります。P9053.jpg
三条大橋は、京の都に入る地点で、彦九郎は京に上る度に、ここから御所に拝礼していたことから、この像が造られたということです。

全国をくまなく遊歴した旅の思想家で、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物なのですから、尊王思想の先駆者ということなのですね。

2009年06月27日

渉成園 睡蓮

6月22日 久しぶりに東本願寺の飛地である渉成園(枳殻邸)を訪れました。入り口が変わり、りっぱなパンフレットが出来ていました。
P9056.jpgP9069.jpg目当ては睡蓮です。P9068.jpgP9066.jpgようよう、雨が上がったところで、足元がしっとりしてしまいます。P9067.jpgP9065.jpgP9064.jpgP9063.jpgP9062.jpgP9058.jpgP9061.jpgP9060.jpg睡蓮に近づくには、池の際まで乗り出す感じになり、雨でぬかるんでいた為、池ポチャ!しそうになって、ヒヤリとしました(^^)P9059.jpgP9057.jpg

2009年06月26日

桂小五郎

天保4年6月26日(1833年8月11日)に和田小五郎は生まれました。
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元服して、桂小五郎と呼ばれるようになり、慶応2年(1866年)に藩主毛利敬親から木戸姓を賜り、木戸孝允を名乗っています。個人的には、桂小五郎が親しみやすく感じるので、タイトルにしました。
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京都ホテルオークラの西側に銅像が建っています。結構、イケメンに造られています。身長6尺(約174センチメートル)だったというのですから、当時としては、長身です。
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オークラ南側には、長州藩邸あとの石碑が立っています。P9072.jpgP9071.jpg三条大橋の上から、幾松さんがお弁当を落とした話が残っていますが、現在の二条大橋の事だそうです。

2009年06月25日

菅原道真と文子天満宮

菅原道真公は、承和12年6月25日(845年8月1日) に生まれ、延喜3年2月25日(903年3月26日)に薨去されています。
北野の天神さんでは毎月25日を御縁日として、露天が立ち並び、大勢の人で賑わっています。

930(延長8)年6月26日には、平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなっっています。この落雷は太宰府に左遷され、亡くなった菅原道真のたたりであると信じられ、道真の怨霊は、雷の神「天神」と同一視されて、天神信仰が生まれました。
このことから、6月26日を雷記念日と称しています。ついでに、左遷の日というのもあり、1月25日だそうです。

この北野の天神さんの、前身の神社とされているのが、東本願寺の東の方(下京区間之町通七条上る)にある文子天満宮です。P9088.jpgP9087.jpg
道真の乳母をしていた(巫女や童女説もある)多治比文子(たじひのあやこ)のもとに、「われを北野の右近の馬場に祀れ」とのお告げがあったのですが、貧しかったため、すぐには実現できず自分の家の庭に小さな祠をもうけ道真公を拝んでいました。P9085.jpg
その後、近江比良宮禰宜神(みわ)良種の子の太郎丸にも「北野辺に鎮座したい」とのお告げがあり、太郎丸と文子は北野朝日寺の僧・最鎮と相談して祠を設けたのが北野天満宮の始まりとされています。P9086.jpg
道真公の御霊が北野に移された後の文子の住居跡は文子天満宮となり、現在に至っています。P9084.jpg道真公腰掛石P9083.jpg
太宰府へ向かう時に、文子に別れを告げに立ち寄った際、腰掛けた石だそうです。P9080.jpg天神さんお決まりの牛P9082.jpgP9081.jpg
文子天満宮は上京区上ノ下立売通御前西入上ル北町にもあります。P9079.jpg明治6年に北野天満宮境内に遷座したため、現在は御旅所となっています。
そして、俊寛ゆかりの満願寺(岡崎)にも文子天満宮があります。P9078.jpg

2009年06月24日

智積院の桔梗

6月22日 
午前中のどしゃぶりの雨が嘘のようにあがって、東山七条の智積院に着いた頃は蒸し暑くなっていました。
P9107.jpgP9106.jpgP9105.jpg
P9104.jpgP9103.jpgP9102.jpgP9101.jpgP9100.jpgP9099.jpgP9097.jpgP9096.jpgP9098.jpgP9095.jpgP9094.jpgP9093.jpgP9092.jpg紫陽花はそろそろ終わりかけでした。P9091.jpgP9090.jpgP9089.jpg

2009年06月23日

立本寺・福壽院

6月22日 どしゃぶりのち晴れ
七本松通仁和寺街道の立本寺さんの蓮の様子を見に行きました。P9116.jpg
2・3の花が開き切って、雨でくずれてしまっていました。蕾が2つで全体的には、これからといったところでした。P9115.jpgP9114.jpg
少し下がって出水通手前の福壽院さんに立ち寄ってみました。P9113.jpg
沙羅の花がしとど濡れていました。P9112.jpg
P9111.jpgP9110.jpgP9108.jpg雨の日の撮影は大変です。完全防水カメラカバーを買わないと危険ですねぇ。P9109.jpg
どしゃぶりの雨の中、カメラ持って出掛ける事自体が、異常かも~(^^)

2009年06月22日

俊寛

左京区の岡崎法勝寺町にある満願寺は、平安時代に白河天皇が建立した法勝寺の跡地にあり、法勝寺執行であった俊寛僧都の住んでいた跡と言われています。P9124.jpgP9123.jpg
こちらは法勝寺の井戸といわれ、俊寛荒行の井戸とされています。P9122.jpg
満願寺は天台宗の僧・最珍を開山として北野に創建されたのが起源で、その後、日蓮宗に改宗し元禄15年にこの地に移っています。
本堂P9120.jpg
見返り美人P9121.jpgP9119.jpg
哲学の道の東、霊鑑寺の南側に「此奥俊寛山荘地」の石標が立っています。P9118.jpg
後白河法皇の側近であった俊寛は、治承元年(1177年)6月、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の山荘で密議を行っています。P9117.jpg山荘跡はかなり、山の中のようなので、パスしました。
藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島に流されたのち、御赦免の船に俊寛だけが、乗れなかった物語は、能や歌舞伎の演目になっています。
十七代目中村勘三郎(現・勘三郎の父)さんが、南座の顔見世で、演じられたのを、小学生の時に観て、あまりの嘆きように、子供心に、ものすごい!と感じました。目に焼きついてしまったようで、崖の上の勘三郎さんの姿は今でも思い出せます。

2009年06月21日

白河院庭園

P9125.jpg東山を借景にした七代目小川治兵衛の池泉回遊式庭園であるこちらのお庭は、静かでゆったりした気分に浸れる場所です。P9126.jpgP9138.jpg大きな一枚ガラスの窓が、広々とした印象をあたえます。お庭を眺めながら、お抹茶とお菓子を頂きました。すぐ食べてしまったので、写真はありません。P9137.jpgお庭に出てみました。P9136.jpg早速、鯉たちが近づいてきました。P9135.jpgP9134.jpgP9133.jpg池の周りを廻ってゆきます。P9127.jpg
半夏生(はんげしょう)
P9132.jpgP9131.jpgP9130.jpgP9129.jpgP9128.jpgちょっとお食事か、お泊りかしてみたくなりました。

2009年06月20日

白河院と法勝寺跡

承保2年(1075年)藤原氏の別荘地であった「白河院」を、藤原師実(もろざね)に献上させ、白河天皇はこの地に法勝寺を建立しました。1086年、院政を始める少し前です。P9142.jpg
岡崎の私学共済事業団の旅館「白河院」に石碑が建てられています。P9141.jpg
法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、広大な敷地に、高さ八十二メートル余の八角九重の塔を始め、金堂、講堂、阿弥陀堂などの諸堂が立ち並んでいました。P9140.jpg

動物園内にも、法勝寺の塔の跡の碑が建っています。
後白河上皇の頃、側近である俊寛が、この寺の執行を務めています。

法勝寺建立の後、この付近に皇族の祈願により、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺と創建され、これらを総称して六勝寺といいました。
尊勝寺 - 1102年堀河天皇の御願により創建。
最勝寺 - 1118年鳥羽天皇の御願により創建。
円勝寺 - 1128年鳥羽天皇の皇后待賢門院(藤原璋子)の御願により創建。
成勝寺 - 1139年崇徳天皇の御願により創建。
延勝寺 - 114年近衛天皇の御願により創建。

2009年06月19日

白河法皇と忠盛の灯篭 

白河天皇は天喜元年6月19日(1053年7月7日)生まれの第72代の天皇です。
20歳で即位。応徳3年11月(1086年)、白河天皇は8歳のわが子の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位。白河院として自ら政務を執る、いわゆる院政を行ないました。
中宮賢子の死後は、女性関係のうわさが多く、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという話もあります。
寵愛する祇園女御のもとへ向かう途中のエピソードです。
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五月雨の降る暗い夜、女御の住まいの近くの御堂のあたりで、前方に闇の中に光る怪しい化け物を見つけた法皇は、供の者に、殺すよう命じます。平忠盛が射殺そうと近づいたところ、どうも様子が違うと生捕りにしてみると、鬼と見えたのは老僧で、灯篭に火をつけようとして雨除けの笠をかぶり、灯明の火を入れたものを持っていただけであったということが分かります。P9145.jpg
法皇は、忠盛の思慮深さを褒め、褒美として、祇園女御を下賜された。この時、女御はすでに身ごもっていて、男の子なら、忠盛の子として育てるがよいと、おっしゃったそうです。P9144.jpg
生まれたその男の子は夜泣きをしていたので、法皇が

夜泣きすと ただもりたてよ 末の代は
        清く盛ふる こともこそあれ

と詠まれたので、清盛と名づけた。
これが平清盛=白河法皇の御落胤のストーリーです。

一説には、清盛の生母は、祇園女御の妹ともいわれています。

鎌倉期のものともいわれるこの忠盛灯篭は、今も祇園さんの本殿東側に怪しく建っています。

2009年06月18日

真如堂の菩提樹と沙羅

6月16日 真如堂の境内では、菩提樹の花の香りが漂っていました。P9152.jpgP9151.jpgP9150.jpg
沙羅の花も、ちらほら咲き始めています。P9149.jpgつぼみが一杯でした。P9148.jpgもうお帰りどすか~。P9147.jpgほな、さいなら。P9146.jpg

2009年06月17日

斉藤利三

天正10年6月17日(1582年7月6日)に、明智光秀の家臣である斉藤利三(としみつ)は六条河原で斬首となっています。春日局の父としても知られている武将です。

本能寺の変に際して、光秀から事前に謀反の意図を伝えられていたが、反対していたという説や、斉藤利三こそが首謀者であるとの説もあったりします。

利三は最初は稲葉一鉄に仕えていたが、故あって(お互い、頑固者だった為とか・・・。頑固一徹という言葉はこの人の名前からきているそうで。)光秀に仕えるようになったそうです。
後に一鉄が信長に利三の帰参を願い出た為、信長は光秀に利三を返すように言ったところ、光秀は「良い部下をもつことは私のためではなく、上様のためである。」と言って断りました。
これに立腹した信長は、光秀の額を敷居に押しつけて折檻したということで、これ以降、利三は光秀に対し並々ならぬ忠義を尽くしたという話が残っています。
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利三の首は親交の深かった絵師の海北友松や、東陽坊らによって、左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)に葬られたということです。

おこしやす。よ~う、お参りしていっとおくれやす。P9155.jpg
本堂の南側の墓地に、その墓があります。P9157.jpg
辞世
消えてゆく 露のいのちの 短夜の
          あすをも待たず 日の岡の山

隣には海北友松の墓があります。P9156.jpg
少し奥には東陽坊の墓もあるようです。
墓地の入り口には、春日局が父の供養の為に植えた「たてかわ桜」があります。P9158.jpg元は直径1メートル余りの巨木でしたが、1958年の伊勢湾台風で折れ、接ぎ木で、甦ったとのことです。
お隣の金戒光明寺に家光の弟の忠長とその母お江与の供養塔を春日局は建てています。

逆臣であった父の墓参りを公にできなかったため、お江与を参る折に、そっと父の墓参りをしようと、その地にお江与の供養塔を建てたのではないかとも言われています。

2009年06月16日

和菓子の日

今日は、和菓子の日です。

1979年(昭和54年)に全国和菓子協会によって設定されたこの日のそもそもの由来は、平安時代、国内に疫病が蔓延したことから仁明天皇が元号を「嘉祥」とあらため、嘉祥元年(848年)の6月16日に16の数に因んだ菓子、餅を神に供えて疫病除け、健康招福を祈った事だそうです。
その後、後嵯峨天皇(1220~1271年)が吉例として行ない、室町時代には年中行事として行われるようになった「嘉祥菓子」の習わしを、現代に復活させたというものです。

無病息災を祈願というと、京都では、6月30日に食べる水無月の方が、親しまれていますが、まぁ和菓子は大好きですから、記念日は何回あってもOKです(^^)

写真は、この間 頂いた鶴屋吉信さんの生菓子です。P9161.jpg
和菓子は季節感が感じられて目にも美しく、カロリーも控えめでいいですね。P9160.jpgP9159.jpg

2009年06月15日

空海

宝亀5年(774年)6月15日を、真言宗の伝承では空海の誕生日をとしています。

淳和天皇の頃、全国的な旱魃や疫病の流行がありました。
天長元年(824年)東寺の空海に雨乞いの祈祷をさせようとしましたが、西寺の守敏僧都の願い出により、守敏が7日間の修法に入りました。満願の日、一天にわかに掻き曇り、大雨となりましたが、全国的な旱魃を解決できるものではなく、空海が呼び出されました。
この舞台となっているのが、二条城南側の神泉苑です。P9169.jpg
空海の祈祷を妨げようと、守敏が諸龍を封じ込めていた為、天竺より善女竜王を勧請して、祈りをささげたところ、大豪雨となり、旱魃を解消することができたそうです。P9170.jpg写真右の方に善女龍王を祀るほこらがあります。
この話はここで終わらず、恨みに思った守敏が空海を狙うようになり、ある晩、空海が羅生門前を歩いているところに、矢を放ったと言われています。矢はどこからともなく現れた僧の肩にあたり、空海は何も知らずに東寺へ、帰っていったということです。P9166.jpg
空海の危機を救ったのはお地蔵様で、「矢取地蔵」と呼ばれ、九条通の羅生門跡の公園へ向かう入り口に祀られています。P9167.jpg
肩の矢傷も痛々しいそうですが、頭巾をかぶられているので、確認できませんでした。P9165.jpg
守敏のいた西寺は、その後荒廃し、現在では、石碑と礎石が公園の丘の上に残っています。P9164.jpgP9163.jpg建保年間に証空上人が西寺を復興し、浄土宗に改宗、西方寺としたそうです。後に、また西寺と改め、現在は旧西寺跡の西北の方に位置しています。P9162.jpg

2009年06月14日

明智光秀 首塚

天正10年6月13日~14日(1582年7月2~3日)の深夜、明智光秀は 山崎の合戦で敗れ、敗走中の小栗栖で農民の竹槍に刺されて最期を遂げました。

ゆかりの寺では、14日を命日として、光秀公忌が営まれます。

三条白川橋を少し下がったところの東側、餅寅さんというお饅頭屋さんの横の路地を入ったところに、明智光秀の首塚というものがあります。P9174.jpgP9171.jpg「わが首を斬り、知恩院にて灰にせよ」という光秀の最後の言葉に従い、家来がその首を抱えて知恩院近くにまで逃れたが、この地で夜が明けたため、やむなく首を埋めたと伝えられています。
この話には諸説あり、この塚も移動しており、また他にも首塚は存在していて、真実は小栗栖の藪の中といったところではありますが・・・。

光秀の木像と位牌を祀った小祠と、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、後に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立された「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と刻まれた石碑があります。
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角の餅寅さんはこの首塚の管理をしてはるそうで、「光秀饅頭」という銘菓もあります。
P9172.jpgこの首塚は、首から上の病気にご利益があると信仰されているようです。

「洛中に桔梗の花が三日咲き」という川柳があります。光秀の家紋であるこの花はどこか寂しげでもあり、涼しげで凛としているようでもあります。P9175.jpg

2009年06月13日

梅宮大社 あじさい他 その2

6月7日の 梅宮さん 紫陽花の続きです。P9195.jpg
柏葉紫陽花という品種のようで、ちょっと変わっています。P9196.jpgP9187.jpgP9185.jpgP9186.jpgP9183.jpgP9184.jpgP9182.jpg
P9181.jpgP9179.jpgP9180.jpgP9178.jpg純白の睡蓮も美しかったです。P9177.jpgP9176.jpg

2009年06月12日

梅宮大社 あじさい他

6月7日 梅宮さんでは、紫陽花も見頃でした。P9202.jpg
橋の上に立っていると、鯉が集まってきました。P9201.jpg
この人、餌くれるんちゃう?P9200.jpg
早よ、餌 放ってぇな!P9199.jpg
何や、くれへんのかいな。しょうもなぁ~。P9198.jpgP9194.jpgP9192.jpgP9193.jpg
さつきP9191.jpgP9190.jpgP9189.jpgP9188.jpgP9197.jpg

2009年06月11日

古田織部 

慶長20年6月11日(1615年7月6日)に、古田織部は自害したそうです。
墓は、大徳寺塔頭の三玄院と堀川上御霊の興聖寺にありますが、どちらも、拝観はできません。P9205.jpgP9206.jpg
天文13年 (1544年 )に美濃(岐阜県)で生まれ、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将で、茶を千利休に学びました。正式には古田 重然(ふるた しげなり/しげてる)という名前です。
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利休七哲の一人で、1591年の秀吉による利休追放の際、秀吉の勘気に触れる事もいとわず、細川忠興と共に、見送りに駆けつけたという話が残っています。

利休は、堺の自宅での謹慎中に2本の茶杓をつくり、二人に贈っています。
「ゆがみ」という茶杓を細川忠興に、「泪」という茶杓を、古田織部にそれぞれ贈っています。

利休の「人と違うことをせよ」という教えを実行し、利休とは対照的な茶の湯の世界を創造したところが、魅力的ですね。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣のおりに、豊臣方に内通したという罪状で切腹を命じられ、「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も弁明せずに、自害しています。

最近では、『へうげもの』という山田芳裕作の漫画の主人公として知られているそうですが、まだ読んだことがありません。この機会に古田織部氏について、もっと調べてみたいと思いました。

2009年06月10日

梅宮大社 花菖蒲 その2

6月7日 梅宮さんの続編です。P9223.jpgP9224.jpgP9225.jpgP9226.jpgP9227.jpgP9228.jpgP9229.jpgP9230.jpgP9231.jpgP9232.jpgP9233.jpgP9234.jpgP9235.jpgP9236.jpgP9237.jpgP9238.jpg
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2009年06月09日

梅宮大社 花菖蒲

6月7日 梅宮大社の花菖蒲を見に行きました。P9240.jpg受付猫
P9209.jpg今日は朝から、だるおすし・・・P9208.jpgなんのお構いもできしまへんよって・・・P9207.jpg好きに観ていっておくれやす。P9210.jpgP9211.jpgP9212.jpgP9213.jpgP9214.jpgP9215.jpgP9216.jpgP9217.jpgP9218.jpgP9219.jpgP9220.jpgP9221.jpgP9222.jpg

2009年06月08日

鴨長明と河合神社

鴨長明は、久寿2年(1155年)賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)通称、下賀茂神社の禰宜(ねぎ)、鴨長継の次男として生まれ、建保4年(1216年)閏6月8日に没したとされています。
父を早くに亡くし、和歌・管弦の道に進みます。

瀬見の小川P9248.jpg
石川や 瀬見の小川の 清ければ
       月もながれを たづねてぞすむ

後鳥羽上皇のサロンの一員として、和歌所の寄人に選ばれますが、下賀茂の摂社・河合社の禰宜の地位につくことができず、本来の出世の道が閉ざされてしまいます。

河合神社P9247.jpg
元久元年(1204年)50歳で出家して大原に隠遁。各地を転々として、承元2年(1208年)山科の日野山に落ち着きます。P9246.jpg
「方丈記」を執筆した「方丈の庵」の跡が、日野の法界寺より奥の山中にありますが、下鴨神社の摂社・河合神社境内に復元された方丈庵が置かれています。移動に便利なように、組立式となっています。
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本社P9241.jpg

2009年06月07日

羅城門跡

東寺から、九条通を西へ200メートルぐらいの矢取地蔵さんの横を北へ入った児童公園が、羅城門の跡地と伝えられています。P9250.jpg
平安京の正門として、朱雀大路の南端に位置し、北の朱雀門と相対していました。
嘉承3年(1107年)に平正盛が源義親を討伐し、京中の男女の盛大な歓迎の中をこの門を通り帰還したという話が残っています。
正面七間、奥行二間で重層、本瓦葺、屋根の両端に金色の鴟尾(しぴ)をあげた堂々たる門で、楼上には兜跋(とばつ)毘沙門像が安置されていたということです。P9254.jpg公園内の花P9252.jpgP9251.jpg
弘仁七年(816年)8月と天元3年(980年)7月の台風によって、倒壊しました。P9253.jpg
渡辺綱が楼上の鬼の腕を切り取ったという話や、村上天皇の時代、宮中に伝わる唐渡りの琵琶「玄象」が紛失し、管弦の名人である源博雅が、玄象の音を頼りに羅生門までたどり着き、琵琶を弾いていた鬼を説得して取り戻したという話、芥川龍之介の小説や映画などで有名でそのイメージはかなり怪しい感じです。P9249.jpg

2009年06月06日

花 イラスト シリーズ ~6月 紫陽花~

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2009年06月05日

京の伝統野菜 パート2

少し前のブログ おなすに続き、旬の京野菜の紹介どす。

伏見とうがらしP9256.jpg「青ト」とお品書きに書かれていたりします。これの焼いたんや、てんぷらが好きどす。

万願寺とうがらしP9255.jpg軟(や)らこ~て、肉厚なんを焼いて、鰹節とおしょうゆで食べます。

じゅんさいP9258.jpgかつては深泥ヶ池で取れましたが、近頃は、秋田や中国産ばっかりどっさかい、京野菜とは言えへんかもしれんけど、敢て入れてみました。
「じゅんさいな人やなぁ~。」その食感から、とらえどころのないとか、調子がえぇとかいった意味で使われる京言葉がおすよって。まぁ最近はこの言葉も聞いた事、おへんけど・・・。

鞍馬の実山椒P9257.jpgおじゃこと一緒に炊いた「ちりめん山椒」はご飯が進みすぎて、えろう困りもんどす(^^)山椒が、ぎょうさん入って、ぴりりとしたんが好きどす。

2009年06月04日

第60回記念 京都薪能

第60回記念 京都薪能は、晴天のうちに終了しました。
1日のお昼に平安神宮に着いたときは、まだ一組で、敷物にフロアクッション、日傘、本にお茶と完全装備で、開場を待ちました。今年は月曜のせいか、はたまたインフルエンザのせいか、集まり方が随分遅いようでした。パンフレットは、豪華版で、ファイルケース付きでカラーページが一杯でした。P9263.jpg顔見世のパンフレットみたいに、演者の顔写真もあるといいのにと考えるのは私だけでしょうか?長~い待ち時間のあと、4時半にやっと開場です。チケット片手に、気分は運動会です。「走らないでください。」と注意されながら、一目散に、目当ての席をゲット!報道の人達が何人もセンターを先に抑えてしまっているのは、やっぱりちょっと不愉快な感じだなと思いながら、その隣をキープしました。
P9261.jpg舞台の床、真ん中あたり、ちょっと木が浮いてるのが、引っかかりそうで気になります。
お酒とお弁当を食べながら、待つことさらに1時間。ようよう始まりです。
「翁」
1日目は観世流、2日目は金剛流で演じられ、両方観る人はその違いがよく分かって面白いでしょうね。粛々とした翁の舞の後、三番三の舞はとても、力が入っているように感じました。

「絵馬」
天照大神が、作り物の宮の中に入り、またそっと少し開けるのですが、あの中って入ってしまうと暗いのでしょうか?まぁ、面をつけているから、最初から暗いでしょうけど。暗くて狭くて暑そう・・・。

副市長さんのあいさつでは、和装を奨励されてました。しっかり着物で来てるんだから、奨励するなら割引して~(^^)
理事長の七五三さんは、いつもにこやかなお顔です。P9262.jpg

「杜若」
謡本を見ながら観ているので、はしょられると、「えっ!」という感じでページをめくらなくてはいけません。薪能は結構、飛ばすので、言葉を辿っているのも、考え物です。この演目は、ぼ~と観ている方が幽玄の世界に、はまり込めてよいかもしれません。

「福の神」
じっちゃん方が演者で、親父たちが後見、孫連中が地謡です。千作さんの登場で、一気に会場が和みます。一回り小さくなられたようにも思いますが、その一挙一動は、おかしくて目が離せません。
P9260.jpg
「正尊」
こちらは、金剛流になりますから、持ってきた観世流の謡本とは、少し異なります。
シテが、観世流では、正尊ですが、金剛流では弁慶になります。
それにしても、何時になく、イケ面の義経です!
金剛流 若宗家の金剛龍謹さんです!きゃ~!また声の良いこと!(*^^*)追っかけしようかしらん?
静御前は、子方が演じます。小さい頃からこうして、舞台に上がって、力をつけていくのですねぇ。
切られ役の倒れ方が、すごくて、歓声が上がります。スローモーションを観ているように後ろに仰け反っていって、溜めてからバッタリと倒れます。
良い子は真似してはいけません(^^)結構、危険です。P9259.jpg
パンフレットに恒例の、茂山もっぴー・逸平兄弟のサインをもらって、(龍謹さんのサインもほしかった。)今年もお終いです。

2009年06月03日

光琳・乾山忌

昨日、6月2日は、尾形光琳・乾山兄弟の命日でもあり、上京区寺之内通小川東入北側にある大本山妙顕寺の塔頭・泉妙院では、光琳・乾山忌が営まれました。P9271.jpgP9270.jpg
光琳は 享保元年6月2日(1716年)、乾山は寛保3年6月2日(1743年)死亡とされています。
光琳は万治元年(1658年)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれました。光琳30歳の時、父が死去。雁金屋の経営は破綻していたが、遊び人であった光琳は兄藤三郎とともに遊興三昧の日々を送っていたため、智恵光院通中立売下がる西側にあった広大な屋敷を売り払い、上京藪内町とよばれていたところに転居することになりました。上御霊神社の鳥居から北西の方角にその屋敷跡の石碑が立っています。P9266.jpgP9267.jpg
40歳前後から、画業に力をいれるようになり、遊び人ならではの軽やかさや、華やかさのある作品を多く残しています。「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」などは、最も有名な作品ですね。

いっぽうの乾山は三男として生まれ、兄・光琳とは対照的に、地味なイメージがあります。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んでいましたが、この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、仁清から本格的に陶芸を学んだようです。37歳の時、二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与え、ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから、「乾山」と号し多くの作品を手がけています。
乾山が器を作り、光琳がそこに絵を描くという兄弟合作のスタイルの作品も有名です。二人がどんなやりとりをしながら、作品作りをしていたのか、興味深いですね。

2009年06月02日

本能寺の変

天正10年6月2日 旧本能寺において、明智光秀に襲われた織田信長は、自害しました。小川通蛸薬師の角に古い方の石碑が立っています。P9273.jpg
現在の本能寺は、寺町御池下がったところにありますが、「本能寺の変」の頃には、このあたりにありました。
本能寺は、応永22年下京区五条坊門(仏光寺通)油小路に創建された本門法華宗の寺で、本応寺と号していましたが、後に改められました。
市内各地を転々として、天文14年に、この地に移っています。
当時は、東は西洞院通から西は油小路通、北は六角通から、南は錦小路までの広い範囲にあり、周囲は堀がめぐらされて、城郭風の造りとなっていました。
焼け失せたあと、天正17年(1589)、この地に再建しようとした上棟式の当日に、豊臣秀吉より鴨川村(寺町御池)の地に移転を命ぜられ、現在に至っています。P9272.jpg
この跡地には現在、老人ホームが建ち、新しい石碑が、油小路蛸薬師下がったところに造られています。
石碑にあるように、本能寺の「能」の字は、火災を避ける意味から、右側のつくりが「ヒがふたつ重なったもの」ではなく、「去」という漢字が使われています。
昨日、17代目の織田家末裔として知られるフィギュアスケート男子の織田信成さんが現在の本能寺を参拝されたようです。バンクーバー五輪での“天下統一”へ向けて、信長パワーをもらったそうです。

2009年06月01日

薪能 「正尊」

あたりもしっかり暗くなる頃、第六十回記念京都薪能 1日目の最後の演目は「正尊」です。
あらすじ
梶原景時の讒言により義経の忠誠心に疑いを抱いた頼朝は義経を殺害する為に土佐坊正尊(昌俊ともいう)を都へ差し向けた。自分を狙った上洛であると思った義経は、弁慶を使いにやり、正尊を屋敷に連れてこさせた。上洛の目的を詰問された正尊は熊野参詣の為と説明し、起請文を書いて読み上げる。その場は、ひとまず、酒宴を催して、お開きとする。その夜、正尊は軍勢を整えて義経を討つべく、堀川の義経邸へ攻め入るが、待ち受けていた義経勢に迎え討たれて、捕らえられる。

この夜討ちの舞台となったのは、六条堀川館といい、堀川五条下がったあたりにあったようです。義経が頼朝に追われて京都を去る際に焼き払われています。P9275.jpg
名水「左女牛井」(醒ヶ井)は、この邸内の井戸といわれ、江戸時代には茶の湯に用いられていたそうです。
正尊は六条河原で処刑される際に、「後世、忠義立てのために偽りの誓いをする者の罪を救わん」と願をかけたといわれています。
四条寺町東入ル南側 八坂神社の御旅所の西側にある冠者殿社(かんじゃでんしゃ)は、祭神は天照大神と素戔嗚尊を祀っていますが、俗説では土佐坊正尊をも祀っていると伝えられています。
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誓文返しの神といい、駆け引きなどでやむをえず嘘をつくはめになった商人の罪を払うといわれています。
祇園や先斗町など花街の姐さん達も、偽りの恋文、証文を書いたこと、嘘をついたことを清める参詣を行なっています。この参詣は一切無言で行わなければ願いは破れるといわれ「無言詣」と呼ばれています。

一通り、予習して、気分の盛り上がったところで、いよいよ今日を迎えました。
天気もよさそうで、マスクもしなくてもよさそうで、なによりです。
近頃は上演中の写真撮影ができなくなってしまったのが、とっても残念ですが、
シャッター音に邪魔されないのも悪くはないです。行ってきます(^^)