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2009年08月31日

花 イラスト シリーズ ~9月 撫子~

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2009年08月30日

後追い地蔵さん

上京区御前通一条下ルの超円寺さんに、「後追い地蔵」というお地蔵さんがいらっしゃいます。
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太宰府へ流された菅原道真公が信心していたお地蔵さんだという話が残っています。
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京都の北野天満宮に道真公が祀られることになり、私もお供して京都に上りたいというお地蔵さんのお告げを受けた僧がお地蔵さんを太宰府から京都まで運び、超円寺に安置したということです。
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菅原道真公の後を追ってきた地蔵 すなわち「後追い地蔵」と呼ばれるようになり、心から信仰する者の願いを聞き届けてくれる地蔵さまとして、信仰されています。

*別の話も伝わっています。
信長の叡山焼き討ちの際、山門別院の観世音像を蓮阿弥という者が、背負って京へ逃れこの地に安置したところ、同じように山門別院に祀られていたお地蔵さんが、自分も京に行きたいと言われ、移したという話です。
どちらにせよ、後追い地蔵さんということではあります。

2009年08月29日

市川 雷蔵

1931年8月29日、八代目市川 雷蔵 は、生まれています。亡くなったのは、1969年7月17日ですから、ちょうど祇園祭です。37歳でした。

中京区西木屋町神屋町で誕生し、生後6か月の時に歌舞伎役者市川九團次の養子となり大阪へ移っています。さらに1951年、子供がいなかった三代目市川壽海の養子となり、雷蔵を襲名しています。

その育ての親ごさんがたと、雷蔵の寄進した灯篭が祇園さんの西の楼門を潜ったすぐの両側に立っています。
鳥居から左手 市川九團次夫妻P8645.jpg右手P8647.jpg
市川壽海さんと八代目市川 雷蔵 の名が記されています。P8646.jpg

1954年に大映所属の映画俳優に転身した後、スター俳優として大活躍します。
「花の白虎隊」 以降、「忠臣蔵 」「大菩薩峠」「炎上」「弁天小僧」「薄桜記 」「初春狸御殿 」「眠狂四郎シリーズ」「忍びの者 シリーズ」「陸軍中野学校 シリーズ」「華岡青洲の妻 」などなど、多くの出演作品があります。
何を隠そう大ファンで、ビデオテープをかなり持っています。
眠狂四郎から入って、その怪しい艶っぽさに魅かれたのですが、他の作品を見るうちに、その明るい素朴な感じや、現代劇になると、いきなり銀行員みたいな感じになってしまう不思議さが面白く、メーク取ったら地味なのに、着流し姿になると、もう虚無感と哀愁あふれるエロチシズム・・・。はまってしまいました(^^)
今年は、没後40周年ということで、「没後40年特別企画 大雷蔵祭」と題して出演作100作を一挙公開するという催しが10月に企画されているようで、楽しみです。

2009年08月28日

足利義昭

慶長2年8月28日(1597年10月9日)室町幕府の最後の将軍である第15代 足利義昭が亡くなりました。
仏門に入って「覚慶」と名乗っていましたが、兄義輝の暗殺により、奈良から脱出。織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任しました。
義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城)を整備し、室町幕府を再建しました。P8650.jpgP8649.jpgP8648.jpg
やがて信長と対立して京都を追われ、室町幕府は滅亡したと思っていたのですが、信長の死後、備後から京都に戻ってるようですね。
豊臣政権が完全に確立するまで一応、将軍だったそうで・・・。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、秀吉から、天正十六年(1588年)に山城槙島1万石をもらいうけ、61歳までの余生を送っています。

2009年08月27日

文徳天皇

天安2年8月27日(858年10月7日)、第55代文徳天皇が亡くなっています。

承和の変で皇太子恒貞親王が廃された後、伯父である藤原良房に推されて立太子し、嘉祥3年(850年)、仁明天皇の崩御に伴い即位された方です。

文徳天皇が東宮だった頃に嫁いでいた良房の娘 染殿后明子(あきらけいこ)にはなかなか子ができず、四条の地蔵菩薩が子宝にご利益があると聞き、早速地蔵堂に参り17日の願をかけたところ、満願の日に懐妊の兆候があり、男の子を出産しました。それがちょうど文徳天皇即位の年で、第四皇子惟仁(これひと)親王、後の清和天皇となり、藤原家の地位を安定させる事となりました。
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染殿院は空海(弘法大師)の開山で、十応心論を清書調巻されたことから十住心院とも称されていて、その他に 釈迦院、釈迦堂とも呼ばれていましたが、この願掛けによって、堂は*「染殿院」と称されるようになりました。庶民の間では「そめどのさん」と通称されるようになりました。

*良房の邸宅を「染殿」といい、娘の明子(あきらけいこ)は「染殿皇后」と呼ばれた事に因っています。
 

2009年08月26日

光孝天皇

仁和3年8月26日(887年9月17日)、第58代天皇である光孝天皇が亡くなっています。

陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち、55歳で即位されています。即位後も炊事を自分でしたというエピソードもあり、温厚で、聡明な人柄であったと伝えられています。
勅願寺創建を計画されましたが、存命中にかなわず、息子の宇多天皇が引き継いで仁和寺を創建されました。
小倉百人一首の歌が有名ですが、これは親王時代に作られた歌です。

君がため  春の野に出でて 若菜つむ
    わが衣手に  雪はふりつつ
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お生まれになったのは、小松殿であったそうです。
一遍が念仏踊りの道場とし、念仏踊りの中心道場としてさかえた時宗遊行派の聞名寺がその小松殿の跡と伝えられています。大炊御門大路(竹屋町通り)の北、室町通りの西にあたり、今に「道場町」の名が残るあたりですが、聞名寺も移転していて、現在はその跡形もありません。写真は、丸太町通から、南西の方角を撮っています。P8651.jpg

2009年08月25日

道元忌

曹洞宗の開祖・道元の建長5(1253)年の忌日は、8月23日夜半とか、25日とか、28日とか記されています。 
建長4年(1252)秋頃より道元禅師は病にかかり、翌5年7月、弟子懐弉禅師(えじょうぜんじ)に永平寺の住持を譲り、8月5日には療養すべく、高辻西洞院の俗弟子覚念の屋敷に入り、54歳で亡くなりました。P8655.jpg高辻西洞院西入る北側にある石碑です。P8654.jpgP8653.jpgP8652.jpg道元の生涯を描いた禅ZENという映画が、DVDになっているようですね。観てみようかと思います。


 

2009年08月24日

船岡山合戦

永正8年(1511年)8月23日夜から24日にかけて、船岡山において合戦がありました。
将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間での室町幕府の政権をめぐっての戦いです。
応仁の乱の時の戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」とも云われています。P8661.jpg赤い丸のあたりに石碑が立っています。P8644.gif

今はのどかな風景の広がる船岡山です。
大文字山P8657.jpg妙法P8658.jpg
P8659.jpg左大文字P8660.jpg
建勲神社 本殿P8656.jpg

2009年08月23日

一遍上人

正応2年8月23日(1289年9月9日)時宗の開祖である一遍上人は亡くなりました。

延応元年(1239年)伊予国の豪族の子として生まれ、10歳の時の母の死をきっかけに、出家しています。
25歳の時、父の死に際し還俗して家督を継ぎ、豪族武士となりますが、33歳で再び出家し、伊予を出ます。
「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。
熊野本宮に向かう道中、1人の僧に、信心の気持ちがおこらないからと、念仏札の受け取りを拒否され、自身の布教の仕方に疑問を感じます。
熊野権現から、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」とのお告げを受け、念仏を無理に強いるのでなく、皆が自然に念仏を唱える気持ちになるように、導くことが肝要であると気付きます。
さらに諸国を巡るうち、人々が念仏を唱えながら、感極まり踊りだすようになり、それが踊り念仏の始まりとなります。
弘安7年(1284年)上洛して、四条京極の釈迦堂に入り、都の各地で布教活動を行ないます。
中京区四条通新京極上ル西側にその念仏賦算遺跡の石碑が立っています。P8662.jpg

 *四条京極の釈迦堂というのは、染殿院のことで、路地を入ると奥にお堂が再建されています。安産 守護の、そめどの地蔵尊が祀られています。
 *賦算(ふさん)とは南無阿弥陀仏と書いた算(ふだ)を配ることです。
 
応長元(1311)年、その教えを継ぐ金蓮寺が、染殿院のすぐ北側に創建され、時宗四条派の本山となり四条道場と称されました。現在は北区鷹峯に移っています。

2009年08月22日

足利義満 花の御所

足利義満は、南朝:正平13年/北朝:延文3年8月22日(1358年9月25日)に生まれました。

摂津の国に泊まった際に、その場所の景色が気に入り、「ここの景色は良いから、京都に持って帰ろう。お前らが担いで行け」と家臣らに命じたという4歳の頃のエピソードが残っています。

正平24年/応安2年(1369年)、11歳の時に義満は、細川頼之を後見人として、将軍の座に着きます。

1378年、義満は室町第を新築し、幕府の機構共々、移りました。内裏に近く、公家屋敷の多い地域です。庭園にはさまざまな花木が植えられ、四季折々に見事な花を咲かせた事から、人々は「花の御所」と呼び、足利氏の幕府を室町幕府と呼ぶようになりました。
現在の烏丸通と室町通、今出川通と上立売通に囲まれた地域です。
室町今出川の東南角に、その石碑が残っています。P8667.jpg
烏丸今出川上る西側の大聖寺内にも石碑があります。P8666.jpg
将軍邸としては始めての、連歌や茶会を催すための会所(客殿)も設けられたそうです。
室町殿内にあった花の御所八幡宮は、後に移され、石碑が上御霊神社に立っています。P8664.jpgP8665.jpg
尊氏の御所八幡宮とは、また別であるそうです。

2009年08月21日

お首地蔵さん

ぼちぼち、地蔵盆の季節ということで、お地蔵さんの話です。

北区北野東紅梅町、紙屋川橋の北西に、お首地蔵さんが祀られています。P8669.jpgP8668.jpg
この辺りが衣笠村と呼ばれていた頃のお話

当時は、人家もなく夜は人通りのない、うら寂しいところじゃったそうな。
そこに夜ごと辻斬りが現れ、犠牲者が出て、村人は怖くて、震え上がっておったそうな。

訴えでても、らちがあかず、自分たちで捕まえようにも、怖くてかなわず、どうしたものかと思案にくれておった。
皆で寄り合って考えたところ、仏様にすがるしか道はないじゃろうと、不幸にも辻斬りに殺された人々の菩提を弔い、併せて村人の安全を願って、お地蔵さんを祀る事に決めたそうな。
そして三体のお地蔵さんを祀り、辻斬りよけを願いました。
不思議なことに辻斬は途絶え、皆はお地蔵さんのおかげだと、お礼参りに訪れたところ、お地蔵さんの体が三体とも、ばっさりと切られていたそうな。
このことから、村人はお地蔵さんを身替り地蔵と崇めるようになり、特に首から上の病いには霊験あらたかと云われるようになり、「お首地蔵」と呼ばれるようになったということじゃ。

 

2009年08月20日

藤原定家

仁治2年8月20日 (1241年9月26日)「小倉百人一首」の選者で有名な藤原定家が、80歳で亡くなっています。
嘉禄2年(1226年)に二条京極より移り住み、晩年を過ごした地の石碑が、寺町二条上がる西側に立っています。P8670.jpgP8671.jpg
この屋敷に住まいしたことから、京極中納言と呼ばれました。ここに多くの歌人たちが集い、歌会などを催していたのですね。早くから歌の才に長けていたものの、出世には苦労したようで、貧しい時期が長かったようです。

自身の歌は97番目に載っています。

来ぬ人を  まつほの浦の 夕凪に
     焼くや藻塩の 身もこがれつつ
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今からウン十年前の小学校6年の夏休みの宿題が、この小倉百人一首を全部覚えるというものでした。歌の内容も今一理解できないまま、丸暗記した覚えがあります。

2009年08月19日

酔芙蓉の観察

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昔なつかしい夏休みの自由研究です。
妙蓮寺の酔芙蓉の変化する様を記録してみました。
時間が立つにつれ、白からピンクへと変化する花色が、お酒を飲んで酔っぱらって顔が赤くなる事にたとえられて、この名前がついている花です。
8月18日 7時⇒10時⇒13時⇒16時⇒18時の同じ花の移ろい写真です。
花AP8707.jpg
P8706.jpgP8705.jpgP8704.jpg
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花BP8702.jpgP8701.jpgP8700.jpgP8699.jpgP8698.jpg

花CP8697.jpgP8696.jpgP8695.jpgP8694.jpgP8693.jpg

花DP8692.jpgP8691.jpgP8690.jpgP8689.jpgP8688.jpg

花EP8687.jpgP8686.jpgP8685.jpgP8684.jpgP8683.jpg

花F
全体の様子です。P8682.jpgP8681.jpgP8680.jpgP8679.jpgP8678.jpg
左寄り手前の低い木が一重の酔芙蓉です。右寄り奥の高さのある方が八重の酔芙蓉です。
一重ばかり撮っていて、隣にくっついて生えている木が八重の酔芙蓉である事を忘れてしまっていて、13時にかなりピンクに変わってしまってから気付き、写真を撮ったのが、次の花Gです。

花GP8674.jpgP8673.jpg
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2009年08月18日

秀吉 北野大茶会と茶くれん寺

慶長3年8月18日(1598年9月18日)伏見城において、秀吉は亡くなりました。

天正15年(1587年)10月、北野の天神さん境内において、秀吉は大茶会を催しました。P8709.jpg
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九州平定と聚楽第の竣工を祝って催した大茶会で、当初、10日間催される予定でしたが、1日で終わっています。肥後の一揆のせいともいわれています。
秘蔵の名物茶器・道具がそろえられ、秀吉、利休、宗易、宗及らの茶人が亭主をつとめたそうです。
1000人もの人が参加したという事ですから、それは盛大なイベントだったことでしょう。

おもしろいのは、やはり茶くれん寺のエピソードですね。
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茶会の会場へ向かう途中、秀吉は千本今出川西入るの「浄土院」という尼寺に立ち寄っています。
豪華ないでたちであったであろう秀吉が、ふいに尼寺の前に輿を止め、つかつかと寺に入っていって、茶を所望したのですから、お寺さんもびっくりしたことでしょうね。
茶の心得のある恐れ多くて、気ままなこの天下人にどうして粗茶が出せようものか。
対処に困った住職が、白湯を差し出すこと三度。
秀吉は「よし、以後、此の寺の名を湯だくさん茶くれん寺とせよ。」と命じたとのことです。P8724.jpg

2009年08月17日

大文字送り火 2009

8月16日 大文字さんを、どこで観ようかと調べ考えたあげく、今年も近場でのお見送りとしました(^^)
P8723.jpg先日、下調べしておいた自宅から徒歩3分のところの穴場スポットです。P8722.jpg煙が立ち込めてきました。P8721.jpgP8720.jpg合掌。
P8719.jpgぷらぷらと、自宅に戻り、屋上へ。「法」の文字の「去」だけが、斜めに見えます。
P8714.jpg船形が、点き始めました。
P8718.jpgP8717.jpgP8716.jpgP8715.jpgなんのお構いもできませんでしたが、無事にお帰りください。P8713.jpg
左大文字は、船岡山の向こうに火の粉だけが見える感じです。P8712.jpg
天窓に消えかけの船形が、映り込んでいました。お盆に水を張ってみたのですが、うまくゆきませんでした。
来年は休みにあたるので、鴨川の床から観て、杯に映し飲もうと考えているのですが、この映り込み方を見るかぎりでは、角度とか結構むずかしそうな気がします。

船岡山にも行って見たいのですが、下見している暇がなかったので、今年はパスしました。いきなり行っても、混雑と方向音痴のせいで、あやしいでしょうから、またの機会に・・・。
P8727.jpg鶴屋吉信さんとこの京都限定お菓子です。包み紙に送り火がプリントされていて、中身は「つばらつばら」と同じです。P8711.jpg
できれば、お菓子本体に大文字の焼印を押してほしいところですけど、お山を食べてる気分は、味わえました。
今年の夏も終わりですねぇ。

2009年08月16日

後醍醐天皇

延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日 )後醍醐天皇は亡くなっています。

「玉骨は縦(たとい)南山の苔に埋まるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望まん」

・・・(骨は、たとえ吉野の苔に埋まるとも、霊魂は常に京を望まん。)と遺言されたようです。
そりゃぁ、尊氏さんも天龍寺ぐらい建てて祀らなくては、大変な事になりますよね。

中京区富小路通夷川下る西側に、二条富小路内裏址の石碑がありました。現在は工事中で、来年度、工事終了後にまた石碑が立てられるそうです。P8726.jpg
藤原実氏の邸宅であったところを、後堀川天皇が仙洞とされてから、四条・後嵯峨・後深草・亀山・伏見・後伏見・花園・後醍醐天皇までが、住まいされました。
隠岐より戻られた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年/正慶2年)6月、建武の新政の政令を発せられたところです。

いい国(1192年)つくろう源頼朝 → 一味散々(1333年)鎌倉幕府 へと移り変わった年です。
近頃では、鎌倉幕府成立は1192年じゃないらしくて、困りものです(^^)
もうテストも受けないから構いませんけど・・・。

2009年08月15日

千本えんま堂 お精霊さん お迎え

13日夕刻 今年は千本えんま堂さんへ、お精霊さんのお迎えに行ってきました。P8735.jpgP8731.jpg閻魔さんP8732.jpg精霊流し供養池P8730.jpgP8729.jpgお迎えの鐘P8734.jpgP8728.jpg
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2009年08月14日

忠臣蔵 初上演

寛延元年8月14日(1748年9月6日)
人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が、大坂・竹本座で初上演されました。

元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)
江戸城中で播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が高家旗本の吉良上野介義央に対して遺恨有りとして殿中刃傷のあと切腹処分となる。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)
大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名が、吉良屋敷に討ち入りする。

「月こそ違え、14日は亡き殿のご命日」といいことで、8月の14日が上演の運びとなったのかどうかはわかりません。

堀川通鞍馬口下るにある大日本スクリーンはかつて瑞光院(山科区安朱)のあったところで、「瑞光院・赤穂義士遺髪塔跡」の石碑が2005年に新しく建立されています。P8767.jpgP8738.jpgP8737.jpg

2009年08月13日

夏 イラスト ~京丸うちわ~

京の花街では毎年初夏の頃、芸妓さんや舞妓さんがお得意様へ名入りの「うちわ」を配る風習があります。この「うちわ」のことを、「京丸うちわ」と言い、表にはその家の紋が、裏には芸妓さんや舞妓さんの名前が入ります。P8773.jpg
名前は、勝手に書いたので、実在はしてらっしゃらないかとは思いますが?

2009年08月12日

妙蓮寺 芙蓉

8月10日の妙蓮寺さんの芙蓉の様子です。
午前中、生憎の雨の中、傘片手の撮影となりました。P8760.jpg
P8759.jpgP8758.jpgP8757.jpgP8756.jpgP8755.jpgP8754.jpgP8753.jpgP8752.jpg雨宿り?P8751.jpgP8750.jpgP8749.jpgP8748.jpgP8747.jpgP8746.jpgP8745.jpgP8741.jpgP8740.jpgP8739.jpg
酔芙蓉P8744.jpgほんのり、頬染めてP8743.jpgP8742.jpg

2009年08月11日

足利尊氏

延元3年 / 暦応元年(1338年)8月11日、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が成立しました。
中京区御池通高倉上る東側(保事協会館前)にその邸宅跡の石碑があります。
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三条坊門第といい、この邸で政務を執り、延文3年(1358年)にここで薨じました。
のちに等持寺という寺院に改められ、別院であった等持院(北区)に合併され菩提が弔われています。P8772.jpgP8771.jpgP8770.jpgP8769.jpg(等持院の写真は昨年10月のものです。)P8768.jpg
中京区御池通高倉東入の御所八幡宮社は、以前は御池堺町西南角の御所八幡町にあり、邸宅内の守護神として、祀られていましたが太平洋戦争中、強制疎開によって、現在の地に遷されています。

鳥居 P8763.jpg拝殿
P8762.jpg摂社 初音稲荷P8761.jpg


 

2009年08月10日

京の伝統野菜 パート4 柊野ささげ

上賀茂神社の北の柊野を原産地とする柊野ささげは、7月上旬~9月中旬が収穫期です。
お盆には、よく仏前に供えられているようです。
ささげは、古来からあったそうで、日本書紀にもその名が記されているそうです。
インゲンと同じように煮物や、おひたしなどに、使います。P8774.jpg
別名を、三尺ささげといい、長さが80~90センチにもなります。

2009年08月09日

狩野元信

文明8年8月9日(1476年8月28日)に 室町幕府 の 御用絵師 狩野派の祖・狩野正信の子である狩野元信は誕生したそうです。応仁の乱の終末の頃です。狩野派2代目で、漢画様式に大和絵の技法を取り入れ、狩野派の基礎を築きました。
上京区元誓願寺通小川東入北側に、その屋敷跡の石碑が立っています。P8782.jpg
元信はここで生まれ、84歳で没しました。その後、狩野家歴代がこの地に住んだといわれています。この附近を俗に狩野図子と呼んだそうです。

昨日取り上げた退蔵院に、元信の作庭である枯山水庭園があります。方丈に面したお庭で、法要の為、正面から眺める事はできませんでしたが、通常拝観のコースから、写真を撮りました。P8781.jpg
P8780.jpgP8779.jpgP8778.jpgP8777.jpg元信の晩年の作品で、いわゆる枯山水の典型的な庭よりも、絵画的なメリハリがあるようです。
退蔵院の北に位置する霊雲院には代表作「山水花鳥図」が残されています。P8775.jpg

そして、随分ご近所にそのお墓がありました。
堀川上御霊東入の妙覚寺さんです。境内を入って左側の唐門前に墓の所在を記した石碑があります。P8783.jpg境内より出て北西の方角、紫明通小川下がる西側に妙覚寺さんの墓地があります。P8786.jpg左奥の方、大きな切り株の近くにその墓はありました。P8785.jpgP8784.jpg元信(2代)・永徳(5代)・貞信(7代)・安信(8代)・時信(9代)・高信(12代)・泰信(13代)の墓だそうです。
よぉ~お参りしといたら、絵が上達するかしらん?

2009年08月08日

ひょうたんの日

数字の「8」がひょうたんの形に似ていることから、全日本愛瓢会が8月8日を「瓢箪の日」と制定しました。というわけで、今日は瓢箪に関係したお寺を取り上げます。

〈福勝寺〉
千本出水西入の福勝寺は別名をひょうたん寺といいます。その由来には、2つの話があります。
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1つは、秀吉が、福勝寺の歓喜天を篤く信仰し、出陣の際に武運を祈願して瓢箪を奉納し、戦いに勝つとその瓢箪を頂戴して帰り、千成瓢箪を造って旗印にしたという逸話によるというものです。

又1つは、福勝寺の創建以来伝わる伝統的なお守りが、宝珠(ほうしゅ)を2つ重ねた形をしていることから、それがひょうたんの形に似ているとして、鎌倉時代ごろからひょうたんをお守りとして用いるようになったというものです。

〈退蔵院〉
右京区花園の妙心寺 塔頭である退蔵院は、如拙の傑作 国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」で有名です。
P8798.jpgP8788.jpgP8787.jpgP8797.jpgパンフレットからのコピー 瓢鮎図P8776.jpgP8796.jpg茶室にも瓢箪の意匠が施されています。P8795.jpgP8794.jpg内側からP8793.jpgお抹茶と瓢鮎菓子を頂きました。P8792.jpgご住職の手による掛け軸P8791.jpgP8789.jpgP8790.jpg

2009年08月07日

弥次喜多像

「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九は天保2年8月7日(1831年)に、67歳で江戸長谷川町の裏長屋で病死しました。
自分の死を予期していて、前日、頭陀袋へ線香花火をいっぱい詰めておいたそうで、火葬場で弔いの人々を驚かせました。

 辞世の句

この世をば どりゃおいとまに せん香の    
              煙りと共に 灰左様なら
三条大橋の西橋詰に弥次喜多の像が造られています。P8804.jpgP8803.jpg撫で石の写真は撮り忘れてしまいました。P8802.jpg東側からP8800.jpg
三条大橋の西から二つ目の南北擬宝珠に池田屋事件の時についたものではないかという刀傷が見えます。池田屋とちょっと距離あるけど?
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2009年08月06日

持明院仙洞御所跡

天福2年8月6日(1234年8月31日)に後堀河上皇が23歳で崩御されています。
上京区新町通上立売上る西側(光照院門跡・恵聖院前)に、上皇の住まいされていた持明院仙洞御所跡の石碑が立っています。P8806.jpg
藤原基頼が邸宅内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけたのがその名の由来です。
基頼の孫 陳子が高倉天皇の子 守貞親王の正妃となり、守貞親王がこの家に寄宿して持明院の宮と呼ばれていました。

承久の乱の後、後鳥羽天皇につながる血統を排除、守貞親王の皇子 茂仁親王が後堀河天皇となったので、守貞親王に太上法皇の称号を奉り、この邸を仙洞としました。後堀河天皇は、当時10歳であったので、守貞親王が後高倉院として、院政を行いました。

後堀河院、御嵯峨院が持明院殿で死去し、その後も後深草、伏見、後伏見、花園、光厳、崇光、後光厳天皇の御所となりました。この帝の方々を持明院統と呼び、大覚寺統と皇位を争う事となってゆきます。

焼失の後に、光照院が移建されています。P8805.jpg

2009年08月05日

夏 イラスト ~金魚~

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2009年08月04日

橋の日 一条戻橋

8月4日は昭和61年(1986年)に、「は(8)し(4)」の語呂合せで「橋の日」と制定されました。

生活と文化に密接な関りを持つ川や橋に感謝し、橋や河川との触れ合いを通して故郷を見つめ直す日だそうです。

市内の橋で、伝説に事欠かないのは、やはり一条戻橋でしょうか。P8814.jpg
平安時代より、位置が変わっていないというこの橋は、現在は架け替えられて、いささか趣きに欠けるデザインのように感じます。P8813.jpgP8809.jpg橋の由来は駒札の通りです。P8812.jpg戻橋の下より下流P8808.jpg
万葉の時代からさまざまな占いが行なわれてきたようですが、橋のたもとで往来の人の言葉を聞いて、吉凶を占う占いを橋占と云ったそうです。
清盛の夫人である二位ノ禅尼が、徳子(建礼門院)の難産の折、戻橋の東のたもとにて橋占をしたそうです。このとき12人の童子が手をたたきながら西から走ってきて、「榻(しじ)は何榻、国王の榻、八重の塩路の波の寄せ榻」と4、5回歌って橋を渡って東の方へ走り去ったと云います。
これを聞いた平時忠は、「国王の榻(牛車の乗降用の踏み台)ということはきっと生まれるのは皇子であろう。めでたい事だ。」と、考えましたが、後に安徳天皇が壇ノ浦に沈むことを歌った後半部分の意味までは、その時はわからなかったという話も残っています。
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かつての戻橋P8811.jpg

2009年08月03日

豊臣秀頼

天正19年(1591年)に鶴丸を亡くして失意の秀吉に、文禄2年8月3日(1593年8月29日)待望の男子 拾丸(ひろいまる)が誕生します。
後の豊臣秀頼ですが、慶長3年8月18日(1598年9月18日)の秀吉の死により、家督を継ぐ事となります。
幼子の将来を心配し、家康に秀頼の後見人になるよう頼み、秀吉は亡くなりますが、そんな約束が守られるはずもなく・・・。P8823.jpg
清凉寺 (嵯峨釈迦堂という呼び名の方がわかりやすいですが)にある墓P8822.jpg
P8821.jpgこの人の場合やっぱり気になるのは、父親は誰か?という事なんですけどねぇ。

2009年08月02日

花 イラスト シリーズ ~8月 向日葵~

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2009年08月01日

伏見城 落城とその遺構

関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城の戦いは、慶長5年7月18日(1600年8月26日)に始まり、8月1日(1600年9月8日)の鳥居元忠の討死、伏見城落城で幕を閉じました。後に、家康によって再建されましたが、次第に軍事的な必要性を失い、廃城となります。解体された遺構が、各地に残っています。
二尊院 嵯峨 
 総門 角倉了以が伏見城の薬医門を移築した門といわれています。
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観音寺 七本松通出水
 山門 伏見城の牢獄の門と伝えられています。
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堅牢な構えで、屋根の傾斜も美しく、朽ちかたも怪しい感じが漂い、歴女心をくすぐります(^^)P8828.jpgP8827.jpgP8815.jpg
門扉の左下(境内側から見て)に、くぐり戸があります。刑期を終えた囚人が牢獄を出る際に、ここをくぐって出たと云われています。P8820.jpg
門を出た囚人はこの門前で百たたきを受け、開放されたことから「百たたきの門」とも呼ばれていたといいます。
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観音寺にこの門が移築されてより、夜ごと、風が吹くと人の泣き声がするといわれ、出水の七不思議の一つに数えられています。P8816.jpg