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2009年09月30日

夢窓疎石

観応2年9月30日(1351年10月20日)鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧 夢窓疎石が亡くなりました。

晩年は臨川寺を以って隠居所とし、この寺で没しています。
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後醍醐天皇の皇子世良親王が元翁本元を開山として招いて創建しようとしたが、親王が建立する前に没したために、父の後醍醐天皇が1335年(建武2年)夢窓疎石を開山として建立しました。p8483.jpg

ちればとて 花はなげきの 色もなし 
   我がためにうき 春の山風


まろくても まろかるべきは 心かな
   角のあるには 物のかかるに

 (角があると、物がひっかかるというのは、さすがに、うまい事をおっしゃるものですね~。)

雲よりも 高き所に 出でてみよ
   しばしも月に へだてやはある

 (宇宙船に乗ればいいのか! もちろんそういう次元の話ではありません。)

2009年09月29日

徳川慶喜

天保8年9月29日(1837年10月28日)江戸幕府最後の将軍となった第15代征夷大将軍 徳川慶喜が生まれています。
第14代将軍家茂の後見職に任ぜられた慶喜は、文久3(1863)年1月5日に将軍の上洛の準備のため入京し、徳川家ゆかりの東本願寺を宿舎として京都での活動を開始しました。p8486.jpg
12月21日に、空き家になっていた小浜藩酒井家邸に移りました。二条城に近い地にあったことから選ばれたそうです。最後の将軍として二条城に入るまでの3年10ヶ月を過ごし、大政奉還への道筋を構想した場所とされています。
若狭小浜藩邸跡(中京区西ノ京池ノ内町 )
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江戸を明け渡したあと、水戸、ついで静岡で謹慎生活を送ります。1869年に謹慎がとかれた後は何も仕事がなく、多彩な趣味に没頭します。鷹狩り、投網、写真、サイクリング、油絵などです。

とりわけて いふべきふしは あらねども
     ただおもしろく けふもくらしつ 

達観した自然体の悟りの境地だったのでしょうか。

2009年09月28日

後土御門天皇

明応9年9月28日(1500年10月21日) 室町時代の第103代天皇 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう )が亡くなりました。
在位は、寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)です。

応仁の乱が、応仁元年(1467年)(人の世むなし)から10年間ですから、在位の前半は乱の真っ只中であった訳です。p8489.jpg
文正2(1467)年正月17日、山名宗全の進言により将軍義政に出仕を禁じられた畠山政長は、自邸に火を放ち、内裏の北東に位置する御霊林(現在の上京区上御霊神社附近)に陣を張りました。これが、応仁の乱の発端です。p8488.jpg
将軍・足利義政は土御門東洞院殿(現在の御所)にあった後土御門天皇と後花園上皇をともに室町殿に移しました。
政長の撤退により、天皇はもとの内裏へ戻りますが、5月に細川勝元と山名宗全がそれぞれに与(くみ)する守護大名を全国から集め、東軍・西軍となって対峙する事となり、勝元は天皇と上皇を室町殿に向かえ、西軍を賊軍としようとしました。
これにより約10年間、天皇・上皇・将軍が同じところに住まいする事となり、天皇は何度も譲位を考えるほど身の上を憂う事となりました。
文明8年(1476年)室町殿の類焼により、あちこちを転々とし、12年に修理の済んだ土御門内裏に還幸する事となりました。中絶していた儀式の復興に尽力しましたが、費用の捻出が難しく、思うようには運びませんでした。享年58歳で崩御された時も、葬儀の費用がなく40日も御所に遺体がおかれたままであったという事です。
伏見区深草坊町の深草北陵に葬られ、遺骨の一部は、父・後花園天皇と同様に、上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨されました。p8487.jpg
写真は千本今出川東入るにある般舟院陵です。

2009年09月27日

嵯峨 彼岸花・コスモス

9月21日 広沢池の周辺には彼岸花が咲いていました。
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特別保存地区の田園p8500.jpgp8499.jpgp8498.jpgp8497.jpg
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2009年09月26日

安倍 晴明

寛弘2年9月26日(1005年10月31日)平安時代の最も有名な陰陽師の一人 安倍 晴明が亡くなりました。

中世から知られている古い晴明塚が嵯峨嵐山駅近くにあり、晴明神社が管理されています。☆印の石塔が建っています。
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晴明さんのエピソードは数々ありますが、ここ広沢の遍照寺に寛朝僧正を訪ねた時、式神を使って蛙を殺して見せたという話が今昔物語に残っています。
広沢の池と遍照寺山p8509.jpg
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永祚元年(989年)花山天皇の御願により寛朝が創建した平安時代の遍照寺は広沢の池の北西から西側一帯を占めていました。p8507.jpgp8506.jpg遍照寺の御堂跡と見られる遺構が平成4年に史跡に指定されたそうですが、立ち入りできない場所にあるようで、見る事ができませんでした。
近世になって復興された遍照寺は、池より南の方、嵯峨広沢西裏町にあります。p8505.jpgp8504.jpg

2009年09月25日

萩 大聖寺門跡

9月22日 烏丸今出川上る西側の大聖寺門跡に立ち寄りました。御門を入ると、一面の萩が迎えてくれます。p8528.jpg
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赤い方はすでに見頃を過ぎていましたが、白い方はまだいい感じでした。p8523.jpg
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2009年09月24日

西郷隆盛

明治10年(1877年)9月24日 西郷隆盛は、亡くなりました。享年51歳(満49歳没)。

大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称されました。

慶応2年1月21日(1866年3月7日)(22日説も)京都小松清廉邸において坂本龍馬を介して西郷隆盛、大久保利通、薩摩藩家老の小松清廉(帯刀)と長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)らが、倒幕運動に協力する6か条の同盟を締結しました。いわゆる薩長同盟です。

堀川一条東入る南側に新しい石碑が建っています。この向かいあたりが、薩長同盟の結ばれた小松清廉邸のあったところとして、近頃では有力視されています。P9223505.gif

二本松薩摩藩邸跡 烏丸今出川上る東側 
同志社西門前p8533.jpg
二藩を仲介した龍馬は、両者の話し合いがうまくいっちゅうと思うちょったけんど、そうではなかったがです。桂に話を聞いた龍馬は西郷のもとにやってきます。
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「そうはいうても、長州がむごいろうが?(それでは、長州が可哀想ではないか?)」
龍馬はその無情を痛論し、西郷らも意を決し、「然らばこの方より、改めて同盟の儀を桂に申し込むべし。」と、感情的に敵対しちょった両藩は同盟を結ぶに到ったがです。
    土佐弁をまじえて、お伝えしました(^^)

2009年09月23日

頼山陽

江戸時代後期の日本を代表する漢学者である頼山陽(らい・さんよう)は、天保3年9月23日(1832年10月16日)に亡くなりました。
歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍し、特に、没後に出版された『日本外史』は、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えました。木戸孝允や伊藤博文らもこの書を読み感奮したそうです。

文化8年(1811年)、32歳の時に上京して以後は、東山三本木の「山紫水明処」に住まいしました。p8536.jpgp8535.jpg
鴨川に面している書斎は、東山を望む風光明媚なロケーションで、現在も史蹟名勝天然紀念物として、保たれています。
鴨川沿いから見た様子は、なんとも昔話に出てきそうな感じです。
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病にかかってからも、執筆活動に励み、死ぬ直前まで、筆を離さなかったそうです。享年53歳でした。
円山公園の長楽寺に葬られています。

2009年09月22日

応天門の変

平安時代前期 866年(貞観8年)9月22日、伴善男らが応天門の放火の犯人であるとして、流罪が言い渡されました。
応天門は朝堂院(大内裏の正庁)の正門であり、朱雀門のすぐ北にありました。
中京区丸太町通千本西入る北側に朝堂院跡の石碑が建っています。この変の際に炎上し、再建されましたが、安元3年(1177年)の大火で、焼失しその後は再建されませんでした。p8538.jpg
平安神宮 応天門 平安京の応天門を5/8のサイズで模したものだそうです。p8537.jpg

4月28日(貞観8年閏3月10日)、応天門が放火炎上する事件が起き、朝廷は大騒ぎとなりました。

ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発し、藤原良相は源信の逮捕を命じて邸を包囲しましたが、太政大臣 藤原良房の進言で無罪となりました。

その後、備中権史生の大宅鷹取が応天門の前から伴善男とその子・伴中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出たため、伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となりました。

伴善男は、犯行を認めませんでしたが、放火犯と断定され、伊豆へ流罪となり、伴氏(大伴氏)は没落しました。

藤原氏による他氏排斥事件のひとつとも見なされています。

2009年09月21日

武市瑞山

文久3年(1863年)9月21日土佐藩では、 武市瑞山をはじめ尊王派が次々に投獄されました。勤王党の獄といわれています。

土佐藩の武士で、江戸で土佐勤王党を結成しました。龍馬の遠縁にあたります。
通称は半平太と言い、長身で、色白・美形・堂々たる風貌で、高潔で誠実、武士道を重んじるという、この上なくモテそうなタイプであったようです。詩歌をたしなみ、美人画にも巧みで、獄中で自画像も残しています。
「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れてまいろう。」で有名な行友李風の戯曲『月形半平太』のモデルとなった人物です。
市川右太衛門や長谷川一夫、大川橋蔵などの主演で、思い出されます。
実際は、色男という感じではなく、妻富子と仲睦まじく、かたくななまでに品行方正な人であったようです。
中京区木屋町通三条上る東側に京都滞在時の宅「四国屋丹虎」の跡があります。
p8541.jpgこの地に尊王派の志士達が集まり、昼夜を問わず激論が交わされていたのでしょうか。先生と呼ばれる存在であったようですが、龍馬とは、あだ名で呼び合う間柄だったようです。

藩全体をあげて勤王を行おうという「一藩勤王」の姿勢を貫こうとした点が、他の藩の尊王攘夷の志士と
は少し違っていたようです。文久3年(1863年)に京都留守居役に任じられていますが、同じ年に投獄される事となりました。p8540.jpg
中京区木屋町通蛸薬師西南角(旧立誠小学校前)p8539.jpg

融通の利かない頑固な気質が、彼の死を早める事になったようで、脱藩すればよいものを、藩命に従い投獄されています。

  花は清香に依って愛せられ、
  人は仁義を以って栄ゆ。
  幽囚、何ぞ恥ずべき、
  只赤心の明らかなるあり。

獄中で描いた自画像に添えられた詩です。

富子が縫いあげて届けた死装束を着て、三文字割腹という、いまだかつてない困難な切腹をして果てました。慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、37歳でした。
獄中の夫に毎日差し入れをし、支え続けた富子は大正6年(1917年)まで存命し、高知市にある武市の墓の傍に葬られました。

時しあれば 吹かでも花は ちるものを 
     心みじかき 春の山風

富子の遺詠です。

2009年09月20日

村岡局

亀山公園の百人一首歌碑を巡っているうちに、村岡局の銅像に遭遇しました。
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先の大河ドラマで、篤姫に賜った三つ葉葵の御紋入り内掛けをまとって、取調べの場に出てきた女性です。
大覚寺門跡家臣 津崎左京の娘で、本名 津崎 矩子(つざき のりこ)。
近衛家に長く仕えていました。 篤姫が近衛忠煕の養女として家定に輿入れする際、近衛忠煕の正室・郁姫がすでに亡くなっていたので、代わりに養母としての役目を果たしました。

近衛忠煕を動かす人物として、尊攘派の注目を集めることとなり、僧月照や西郷隆盛らを取り次ぎ、公家と志士の連絡等尊攘運動に尽力しました。
この為、安政の大獄で捕われ、江戸へ送られ厳しい尋問を受ける事となりました。
江戸への捕われの旅でよんだという歌が残っています。

日日に かはる旅路に かはらぬは
     人の心の まことなりけり

30日間の禁固刑の後、京に戻り、北嵯峨の直指庵を再興してそこで余生を過ごしました。
雨あられ 激しく降れど 軒深き
     わが家はそれと 聞こえざりけり
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明治6年8月23日 88歳で亡くなりました。
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写真は亀山公園を下りてきた竹薮の道です。

2009年09月19日

京の伝統野菜 パート8 丹波松茸

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2009年09月18日

南極料理人

少し前ですが、映画「南極料理人」を観ました。
南極観測隊に料理人として参加した、西村淳原作のエッセー「面白南極料理人」を映画化したものです。
堺雅人演じる主人公・西村は、やっと念願適って南極に行く直前に事故にあった同僚の代わりに、料理人として、南極赴任を命じられます。究極の単身赴任です。
昭和基地からも遠く離れた南極ドームふじ基地での越冬隊員たちの胃袋を満たすために力を注ぐ西村。8人の男性たちの食卓、その生活ぶりを描いた映画です。
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結構、笑えました。歳のせいか、涙腺がゆるくなってきたので、泣き笑い状態でした。
単調な暮らしに彩りを添えようと頑張る料理人。無頓着な隊員。
非日常的な日常の中で、変になりそうな人たちのおかしな行動、それぞれの仕事への思い、家族への思い、食べ物への執着。
個性豊かな隊員たちの共同生活が、普通の家族のようにも見えてくる感じは、食卓を中心に描かれているからだけでなく、お父さん役、お母さん役、やんちゃな兄弟たちなどと役割分担がだんだん出来てきて、そこに調和が生まれるゆえで、ほのぼのと暖かくなります。

おいしそうな料理が次々と出てきて、昼前に観たので余計お腹が空き、即ラーメンを食べました。
食べたい時に何時でもラーメンを食べられる幸せをかみ締めた映画でした(^^)

2009年09月17日

京の伝統野菜 パート7 丹波栗

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もう、こんな季節ですね。

2009年09月16日

東三条院(藤原 詮子)

第64代 円融天皇の女御であり、第66代一条天皇の生母である藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ)は、寛和2年(986年)に一条天皇が即位すると皇太后となっていましたが、正暦2年(991年)円融法皇の崩御の後、同年9月16日に出家し、皇太后宮職を停めて院号宣下を受けました。
居宅の東三条邸に因んで東三条院と呼ばれました。
摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、道隆・道兼・道長、冷泉天皇女御超子と同母の兄弟です。

中京区押小路通釜座西北角にその東三条殿の跡を示す石碑が建っています。
藤原良房が創設し、摂関家嫡流に伝領されました。
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寛弘2年(1005年)の内裏焼亡により一条天皇の里内裏として用いられ、以降も後院や里内裏として用いられました。

詮子は、4才下の弟・道長を可愛がり、道長と甥・伊周が関白を争った際に、渋る一条天皇を説得(夜中に天皇の寝所に押しかけて)して、道長の政権樹立に大きく貢献しました。その後、道長は長女彰子を一条天皇の女御として入内させ、その地位を確かなものとしてゆきました。
紫式部・和泉式部などの女流文学者を生み出した、華やかな時代の幕開けでした。

2009年09月15日

亀山天皇と近頃の亀山公園

第90代亀山天皇は、鎌倉時代 嘉元3年9月15日(1305年10月4日)に亡くなっています。

後嵯峨天皇の第七皇子で、正元元年(1259年)、父の後嵯峨上皇や、生母の大宮院の強い意向で兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚されています。

後深草天皇の血統(持明院統)と自らの血統(大覚寺統)とが、交互に皇位継承を行う両統迭立の始まりです。
院政中には2回の元寇が起こり、自ら伊勢神宮で祈願されています。

父 後嵯峨院が嵯峨野に建造した離宮亀山殿を伝領し、退位後は仙洞としてそこで崩御されています。分骨されていますが、天龍寺境内に亀山殿法華堂を以って陵とした亀山陵があります。隣接する亀山公園には火葬塚があります。
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川沿いのお食事処と百日紅p8563.jpg
ところで、この亀山公園に、平成19年10月 小倉百人一首文化財団によって、「百人一首歌碑」が建立されました。
小倉百人一首の殿堂「時雨殿」周辺の5つの地域に点在しているのですが、亀山公園には、49首の歌碑があるそうです。
この歌碑の建立に関しては賛否両論あるようですが、ブロガーのサガというか、見つけてしまったので思わず写真を撮り歩く事となり、天皇の火葬塚をパスしてしまいました。p8562.jpgp8561.jpg

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歌碑は次回に続く。

1基あたり約300万円だそうで、×100ですから、かなりの高額です。
それはさておき、この小倉百人一首は、時代的には84代順徳天皇で終わっていますから、当然亀山天皇の歌はありません。それで、最後に今の季節の亀山天皇の歌を探してみました。

あまつかぜ 空にたちつつ あらかねの
    土の色にぞ 秋もみえける

嘉元元年(1303年)頃に詠まれた百首歌。
「あらかねの」は「土」の枕詞。夏と秋では、土の色も異なっていると早秋を感じての歌です。

2009年09月14日

ガラスの音色たち

9月1日 堀川寺之内上るの裏千家センター内の茶道資料館のミニコンサートに出掛けました。

こちらでは、時折、夕方にいろんなコンサートをされているようで、入館料500円のみで、短いコンサート(18時開場 18時半開演 約40分)を楽しむ事ができます。当日は資料館の展示も併せて観る事ができます。
7月5日の「ふえふきねずみさんのコンサート」の次回お知らせで見て、初めて近所でそんな催しがある事を知りました。

今回のコンサートは、「ガラスの音色たち」と題して、ふえふきねずみさんとそのお友達の方々のクリスタルな楽器による演奏会でした。

前回に見たクリスタルフルートに加え、アクエリオン・ツララチャイム・クリスタルパンパイムなる楽器も登場しました。
アクエリオンp8570.jpg
ガラスの板が並んでいる打楽器です。
ツララチャイムp8569.jpg
30本のガラス棒を並べたチャイムです。
クリスタルパンパイムは写真を撮りそびれましたが、ガラスの筒の並んだ管楽器です。
ふえふきねずみ こと 福谷一美 氏p8566.jpg
ご本人も、クリスタルです(^^)
伴奏は、北村麻也子 氏p8568.jpg
両足首にも、鈴系?の楽器を装着しての演奏です。p8567.jpg
佐藤実希子 氏も加わって、フルート2重奏でした。p8565.jpg

前回、音色が気に入った中国の笛子(ディーズ)までが、今回は、クリスタルになって登場していました。笛膜が張られたもので、独特の哀愁のようなものがあるのですが、クリスタルバージョンという手もあったのですね。

中継ぎで水を飲み、いつまでもコップを持っていると思ったら、コップが楽器に早代わり!
穴も開いていないのに、メロディーが生まれるのは、不思議です。帰ってさっそく真似てみましたが、フーフーと息の音がするだけで、何にも鳴りません。まぁ、素人には無理な芸当です。
次回のコンサート案内furu-to.gif
画像の拡大ご興味のある方は、ぜひお出掛けください。

2009年09月13日

京の伝統野菜 パート6 紫ずきん

黒大豆枝豆「紫ずきん」は、丹波地方で栽培されており、9月中旬から10月末にかけて出荷されています。先日、出荷作業がテレビに流れていました。
一般の豆より粒が大きく甘味が強い、栄養たっぷりの野菜です。食べ頃になると、粒がうっすら紫色になることから命名されたそうです。
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ゆでて食べるのが、大好きです。買いに行かなくては!

2009年09月12日

コムラサキシキブと銀杏

紫式部の墓所(堀川北大路を下がった西側、島津製作所の一角)
入り口にある墓碑の後ろのコムラサキシキブの実が美しく色付きました。p8580.jpg
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歩道のイチョウの木を見上げると、こちらも実が生っていました。p8575.jpg
秋の気配ですね(^^)

2009年09月11日

薬子の変と斎王

弘仁元年(810年)9月11日、平城上皇と嵯峨天皇の間に対立関係が生じた薬子の変が終結しています。

退位した平城上皇は旧都平城京へ移った後、嵯峨天皇と対立するようになり、復位を考えるようになりました。
二所朝廷の対立が深まる中で、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、これを知った嵯峨天皇は素早く対応、征夷大将軍・坂上田村麻呂と藤原北家の藤原冬嗣を平城京へ派遣しました。
平城京の周囲の関所を速やかに封鎖、平城上皇が地方から兵隊を集められないようにし、藤原仲成を捕らえ降格処分とし、藤原薬子は内侍の役職を剥奪し平安京を追放します。

平城上皇は藤原薬子と共に手近な兵を集めていったん東国に出て再起を図ろうとしますが、嵯峨天皇は9月11日に藤原仲成を処刑、坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させ、平城上皇の進路を阻みます。

動きの取れなくなった平城上皇は平城京に戻り、内乱は終結します。
9月12日に藤原薬子は自殺、平城上皇は剃髪して仏門に入ります。

嵯峨天皇は、この対立に際し、空海に、上皇をそそのかしている者たちの調伏を依頼していますが、
賀茂大神にも「もし我に利あらば、皇女を"あれおとめ"として、奉仕させる」という誓いを立てました。
そして勝利を収めた事により、伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立、嵯峨天皇の皇女である「有智子内親王」を初代賀茂斎王として卜定させ、平安京の安泰を祈願しました。

紫野の斎院跡 上京区上御霊前通智恵光院東入(櫟谷七野神社内)p8581.jpg
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2009年09月10日

伊藤 若冲

江戸時代の京の絵師である伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう) は、寛政12年9月10日(1800年10月27日)に亡くなりました。
正徳6年(1716年)に錦高倉の青物問屋「枡源」もしくは「枡屋」の跡取り息子として生まれ、23歳のとき、父・源左衛門の死去によって、家業を引き継いでいますが、商売にはあまり関心がなかったようです。(問屋の仕事は、生産者や小売り業者などに場所を提供して、販売させて使用料を徴収するといったもので、本人が青物を取り扱っていたわけではありません。)
写真は高倉錦から上の方の生家のあったあたりを写しています。p8591.jpg
家業のかたわら、狩野派、光琳派や中国の宋・元の画法を学び、四十歳で家督を弟に譲り、隠居して、絵画の制作に専念しています。
果蔬涅槃図p8588.jpg
相国寺の禅僧が、若冲のことを「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されています。
絵を描くことが人生の喜びの全てで、およそ世間の雑事に関心がなく、芸事も酒も女遊びも興味がなかったようです。
相国寺の真如蓮p8592.jpg
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号です。
境内の芙蓉p8593.jpg
数十羽の鶏を飼って生態をひたすら観察し、写生することによって、思うままに手が動くようになったという話です。
南天雄鶏図p8590.jpg
近年見直され、注目を集めているその独特の画風は、写生的でありながら、異才を感じさせる装飾性にあふれているように感じます。
雨龍図p8589.jpg
天明の大火で、居宅を焼失し、しばらく、大阪に滞在しています。晩年は、深草の石峯寺に隠棲し、裏山にユニークな石像群も造っています。
妻子も持たず、禅宗に深く帰依し、85歳の長寿を全うするまでに、多くの作品を生み出しています。
没後、石峯寺に埋葬されましたが、相国寺にも生前墓の寿蔵があります。p8594.jpg

2009年09月09日

重陽の節句

9月9日は重陽の節句です。
中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる9月9日を、「重陽」として節句のひとつとしてきました。

菊の花は不老長寿の薬とされていて、菊の香りを移した菊酒を飲むなどして邪気を払い長命を願うという風習がありました。これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家の祝日となりました。

平安時代、菊の被綿(きせわた)といって、重陽の節句の前夜にまだつぼみの菊の花に綿をかぶせて菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でたりした様子が枕草子や紫式部日記に残っています。
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古来の風習を懐かしみ、今宵は、菊酒に酔いしれてみましょう。菊花とほうれん草のおしたしも、作ってみました。p8587.jpg

菊慈童が出てきて、舞を舞う様など想像して・・・。

2009年09月08日

梅田 雲浜 捕縛

小浜藩士の梅田 雲浜(雲濱)(うめだ うんぴん)(1815~59)は、1859年9月8日に京都で捕縛されました。
幕末期の儒学者で、上洛して、藩の塾 望楠軒の講主をしていましたが、藩政批判発言により、藩籍を剥奪されました。
尊皇攘夷を求める志士の指導者であったため、真っ先に捕えられ獄中で病死しました。
享年45歳でした。
大老・井伊直弼による安政の大獄の始まりです。
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石標は烏丸御池上る東側にある雲浜の宅跡です。

2009年09月07日

嵯峨天皇

桓武天皇の第二皇子である嵯峨天皇は、延暦5年9月7日(786年10月3日) に生まれています。

兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟となった後、病気のため退位した平城天皇に代わり即位するも、平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。

このことにより、異母弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太弟に立てた事によって、また新たな火種を生み出しています。(承和の変へと)

退位後は冷然院さらには、嵯峨院を造営して住まいとしました。
冷然院跡の石碑 二条城北東p8598.jpgp8597.jpg
嵯峨院跡p8605.jpgp8604.jpg
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嵯峨院の庭園に設けられていた名古曽滝は大沢池の北方に位置しています。 p8599.jpgp8510.jpg
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北嵯峨赤阪町p8601.jpg
今は田園風景の広がる地域です。p8602.jpg

2009年09月06日

高台院

豊臣秀吉の正室である北政所(出家して高台院湖月尼)は、寛永元年9月6日(1624年10月17日)に亡くなりました。
名前については、「ねね」「おね」「ねい」など、説が分かれていますが、東山の高台寺あたりでは、ねねの道という通りの名が、定着しています。
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豊臣秀吉の死後、北政所はその菩提を弔うための寺院の建立を発願しました。
北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(寺町通御霊馬場にあった曹洞宗の寺)を移築して新たに高台寺を開創しました。
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秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、財政的援助を行なったので、寺観は壮麗をきわめたといいますが、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在に至っています。
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高台寺の西側にある塔頭の圓徳院は、伏見城の化粧御殿を移築したもので、北政所の居所とされました。北政所は慶長10年(1605年)から亡くなるまでここに住まいしました。p8610.jpg
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ともなひて 眺めにあかし 深雪山
    帰るさ惜しき 花の面影

醍醐の花見の際に、ねねの詠んだ歌です。

2009年09月05日

黒豆の日 京の伝統野菜 パート5

明日、9月6日は黒豆の日だそうです。
黒豆製品を扱う菊池食品工業が「く(9)ろ(6)まめ」の語呂合せで制定したようです。

京野菜では、丹波黒豆が大粒で有名です。この黒豆のたいたんは、お正月には欠かせませんが、大好きなので、年中食べています。6月上旬の種まきで、収穫は12月前半です。p8610.gif

京の伝統野菜の豆類としては、他に京都大納言小豆があります。

武士は腹を切ったりしますが、大納言は高貴な方なので切腹しないことから、煮ても皮が切れない小豆を大納言と言うそうです。

また一説には、小豆の形が烏帽子に似ているからとも言われています。京の和菓子作りには欠かせない一品です。p8609.gifこちらの種まきは、6月下旬~7月下旬で、収穫は10月半ば~12月いっぱいまでです。

2009年09月04日

くしの日

9月4日は、美容関係者らが昭和53(1978)年に制定した「くしの日」です。

東山安井の安井金比羅宮には、櫛塚(久志塚)があり、櫛をお祀りしていて、美願のご利益があります。p8626.jpg
毎年、9月第4月曜日には、京都美容文化クラブによって、くし祭りが催されています。
古くなったり傷んでしまった櫛やかんざしに、感謝をこめて供養するお祭りです。p8625.jpg

日本髪を結い上げるつげ櫛は、その用途によって形が異なっています。ちょっと紹介してみましょう。
 (関西と関東では少し呼び名に違いがあったり、人によって違ったりもしています。)

荒櫛・とかし櫛p8615.jpg

中櫛
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鬢(びん)櫛p8623.jpg

深歯・びんだしp8618.jpgp8617.jpg

筋立・月形p8622.jpg

ねずみ歯p8621.jpg
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鬼歯p8620.jpg

なぎなたp8614.jpg

へら付き筋立てp8616.jpg

へらp8613.jpg

元結通しp8612.jpg
他に、はまぐり歯というものもあります。

2009年09月03日

高倉天皇と小督局

後白河天皇の第7皇子である高倉天皇は、応保元年9月3日(1161年9月23日)に生まれ、8才で即位しています。当然、後白河法王の院政下にありました。

母親は、平清盛の妻 平時子の異母妹である平滋子ですから、清盛は叔父にあたります。

11才で、6才年上の清盛と時子の娘 平徳子(後の建礼門院)を中宮にむかえています。
そして生まれたのが安徳天皇ですから、思いっきり平安末期ですね。

そして、ここに中宮徳子に仕えた宮中一の美女で琴の名手であったという小督局が登場します。

権中納言藤原成範の娘である小督局は清盛の女婿藤原隆房に見初められたのち、
高倉天皇の寵愛を得ることになります。
これにより、清盛に憎まれることとなった小督局は、嵯峨の山中に身を隠します。p8630.jpg

天皇は源仲国に小督局を探し出すよう命じ、仲国は琴の音を頼りに探し当て、連れ戻します。
p8633.jpgこの時奏でていたのが、琴の秘曲「想夫恋」だそうです。p8632.jpgp8631.jpg
再び天皇の寵愛を得て、皇女(範子内親王)を生みますが、清盛の怒りを買い、尼にされて追放されます。時に23才。p8628.jpg川縁に咲いていた花p8627.jpg
謡曲になっていますが、まだ観た事がありません。ぜひ観てみたいものです。

2009年09月02日

和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)は、明治10年(1877年)9月2日に亡くなられました。
孝明天皇の異母妹で、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室になった方です。昨年の大河ドラマで、堀北真希さんが演じていた事で、記憶に新しい感じです。
堀川寺之内東入るの宝鏡寺には、幼少のころ遊ばれていたという“鶴亀の庭”や和宮さまの遺品も保存されています。p8636.jpgp8635.jpg
御所の特別拝観の際には、和宮さまが乗られたという板輿が展示されていました。P8634.gif
家茂が上洛の際、土産は何がよいかと聞かれた和宮は西陣織を所望したそうですが、形見として届けられることとなり、

空蝉の 唐織り衣 なにかせん
      綾も錦も 君ありてこそ

と歌っています。
家茂死後は落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗られました。母・夫・兄と短い間に続けて亡くされ、時代が大きく変化する中に身を置き、32歳で亡くなっています。

2009年09月01日

坂本龍馬と乙女ねえやん

昨日分のエントリーと日時が、前後していますが・・・。

土佐藩士 坂本龍馬の姉である坂本乙女(さかもと おとめ)は 明治12年(1879年8月31日)に亡くなっています。
文武両道で、大柄な頼もしい感じのイメージの人です。龍馬の母親代わりとして、幼い頃は泣き虫だった龍馬を教育したそうです。

龍馬はこの姉を慕い、何度も手紙を書いています。
写真は龍馬の京都での住まいとなっていた河原町通三条下る一筋目東入北側にある材木商酢屋(中川嘉兵衛方)です。
ここを海援隊屯所としていました。この二階の部屋からも、乙女ねえやんに向けて、手紙を書いていたのでしょうか?
P7132358a.gif寄っていかんかえ?P7132356a.gif
写真内の龍馬は、合成ですので、ここに立っている訳ではありません。念のため(^^)