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2010年05月31日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その8-

明治22年、66歳の小龍は、京都府知事 北垣国道からの招きで、琵琶湖疎水事業の記録図役となります。京都までの道中を、高知から室戸経由で、徳島、大阪へ淀川をのぼっています。その道中を「夢の浮世老の道行」として軽妙な画文の道中記を描いたようですが、現存していないそうです。
南禅寺境内琵琶湖疎水図
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広島・九州と旅し、広島では、明治天皇の御前揮毫を行っています。
京都に戻り、明治29年 妻照子を亡くしています。
龍図が好きだった小龍は、最晩年に大作「龍虎図」を描いています。
龍虎図 明治30年
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明治31年(1898年)12月19日 75歳で胃癌にて亡くなっています。
辞世
「三年の昔妻を衣笠山に葬りければ吾も亦身をここに納めんとて」と前置きして
はだ寒い 衣笠山の麓にて
    あとさき消ゆる 松の下露
と残しています。
衣笠山の麓 等持院に葬られました。p6850.jpg
等持院門前の駐車場左手の出入り口を出て、p6849.jpg
右手に真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がるとp6848.jpg
立命館大学の門が見えます。p6847.jpg
この門を入り、真っ直ぐ歩くと、等持院の墓地にたどり着きます。p6846.jpg
墓地の右の方に河田家のお墓が並んでいます。p6845.jpg
真ん中は祖先代々墓、左が河田小龍墓、右は河田照女墓となっています。p6844.jpg

明日から6月ですね。1・2日は薪能の日です。2日の演目「祇王」に地謡で出演される能楽師 宇高通成さんは、小龍さんの曾孫にあたられるそうです。勝手に不思議なご縁を感じてしまいました。

2010年05月30日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その7-

明治4年以降、新たな弟子も入り始め、後年に知られた人々を輩出しています。明治7年には、京都の清岡公張宅に逗留しています。道之助の弟で、志士となり活動、明治政府で昇官している人物です。
明治9年、高知県勧業課に出仕。内国勧業博覧会の高知での事務係を務めました。
桃源郷図 
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明治11年のこの作品は三国志の勇者たちが武器を捨て、山中の桃源郷に集うという作品です。
この年、長男 蘭太郎は京都医学校(京都府立医科大学)に入学。後に産婦人科医となり、京都に暮らしました。
鯉図
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実用の「高知市街地図」の刊行にも関わっています。
明治12年(1879年)56歳になった小龍は隠居して蘭太郎が河田家の当主となっています。
夜梅図
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小龍は、内国勧業博や内国絵画共進会などに作品を出品、精力的に絵画を制作しています。
観音図p6854.jpg
明治15年、大病を患いましたが全快し、書画大会を玉水新地の得月楼で開いています。
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明治3年に陽暉楼として創業し、11年に観月会の折に、得月楼と命名された料亭です。宮尾登美子作「陽暉楼」の舞台となったことでも、有名なお店です。私も一度行ったことがありますが、小龍さんの掛け軸は拝見していません。
軍鶏図p6857.jpg

2010年05月29日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その6-

中国の故事・歴史画ばかりでなく、日本の歴史物も多く描いています。
安宅の関図p6867.jpg
日野阿新丸p6866.jpg
万延元年(1860年)3月、桜田門外の変の折、江戸にいた小龍の末弟の三吉郎は、現場に駆けつけ、その状況を小龍に伝えたそうです。9月には、「門刺奇観」としてその変の様子を小絵巻に描き記しています。
南朝の故事を多く描いていることから、勤皇の絵師ともいわれていますが、多くは明治に入ってから、要請を受けての制作のようです。
長寿や、豊饒を祝う縁起物も多く手がけていて、瓢逸で、笑える作品もあります。
百福笑図p6860.jpg
個人的には、このあたりの作品が好きですね。

さて、龍馬伝ではいよいよ半兵太が投獄されました。翌年切腹ですが、ドラマはまだしばらく引っ張るようです。一足早く、切腹場所となった南会所跡である高知市帯屋町の武市瑞山殉節の石碑画像です。
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幕末から維新にかけて、小龍は絵を描いていられる状況では無くなっていました。慶応年間より、明治3年まで、画塾も閉じられていました。塩田の失敗から、浦戸の家も手放していて、九州から公務を終えて戻っても家がないありさまでした。p6862.jpg
平成17年に、南はりまや町の電車通り脇に「河田小龍生誕地・墨雲洞跡」碑が建てられました。料亭得月楼本店東側で、小龍の生まれた所から30㍍ほど離れているということです。p6861.jpg

2010年05月28日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その5-

芝居絵を描くために逗留した旧家に美人画の襖絵が残っています。
四季人物画
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頬がふっくらとした大柄な美人画をよく描いたようです。それは、妻照子に似ていたそうです。

鐘馗と花魁図
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大原女図
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中国の美人画もあります。
玄宗皇帝遊戯之図
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この大作を描いていた文久元年、武市半兵太は土佐勤王党を結成しています。

儒学の素養豊かな小龍は、中国の故事も多く題材にしています。
許由巣父 耳洗p6869.jpg
文久2年、龍馬脱藩、そして吉田東洋が暗殺されます。
この東洋を演じていた田中泯さん、舞踊家として大学にお招きした事があります。
私の在学中の話ですから、かなり古い話ですが、当時から独特の雰囲気があり素敵でしたが、ますます異才を放ってらっしゃるようですね。
土佐より、携帯画像が届きました。帯屋町にある東洋暗殺の地の記念碑です。後ろは追手前小学校です。p6865.jpgp6864.jpg

2010年05月27日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その4-

-その3のおまけ-
藩札写真のリクエストがあったので、ここに拡大してみます。
鯨札・鰹札 表p6875.jpg
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-その4-
幕末土佐の美術で、強烈なインパクトを受けるのが、土佐芝居画屏風です。
二曲一隻の屏風に芝居絵を描き大成させたのは、弘瀬 金蔵 通称 絵金(えきん)でした。
林 洞意(はやし とうい)という名で、御用絵師となりましたが、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことにより、その地位を追われ、破門されています。
城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後の消息がはっきりしていませんが、赤岡の地で、絵師 金蔵として蘇ります。土佐の夏の祭礼に奉納されていた歌舞伎芝居が幕府の倹約令で中止され、替わって絵金らの描いた芝居絵が奉納されるようになりました。歌舞伎の名場面をダイナミックに独特の色彩と手法で描きあげたその作品群は、土俗的であったり、血まみれの鮮烈な描写であったりして、一度見ると脳裏に焼きつく感じです。現在も赤岡では絵金祭として伝わっています。私も現地でその迫力を体験し、エグイかも~とか思いながらも、しっかり図録を買ってしまいました。血まみれじゃない作品を2つばかり・・・。
蘆屋道満大内艦(あしやどうまんおおうちかがみ)保名内(葛の葉子別れ)p6879.jpg
二月堂良弁杉の由来(にかいどうろうべんすぎのゆらい) 
絵金円熟期の作品と見られています。
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多くは、絵金の弟子の作品と云われるその中に小龍の作品もあります。彼の作品は色彩も地味で、動きも硬いようです。
関取千両幟p6877.jpg
壇浦兜軍記 阿古屋の琴責めp6876.jpg

2010年05月26日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その3-

小龍の画のジャンルは幅広く、その本領がどこのあるのか判断に苦しみます。山水図や、真景図と呼ばれる実景を写したものも多く残っています。
山水図p6882.jpg
浦戸湾図p6881.jpg
そして、土佐ならではの捕鯨図は、やはり興味深く感じられます。
津呂組奥宮捕鯨絵図p6880.jpg
こちらは、香川県金毘羅宮に奉納した大絵馬「捕鯨図」の下絵とされています。
絵馬には、いち早く入手した人造のウルトラマリンブルーの顔料が使われています。
この絵馬の成功で、次々と注文を受け、あちこちの神社に絵馬を奉納しています。
また、明治元年発行の土佐藩札のデザインにも携わりました。鰹札と鯨札という土佐の海の幸を描いています。

2010年05月25日

龍馬伝 外伝 -河田 小龍 その2-

小龍の開いた墨雲洞は、画塾というより学塾のようだったそうです。学問のない画は職人芸であるとして、画を学ぶにあたってはまず学問から入る指導をしました。頼山陽などの史書を教えたりしたことから、画家として名を成す者と別に維新の志士が育っていったようです。
龍馬にとって、小龍との会合は、その後の龍馬の活動に重要な示唆を与えるものとなったのは、龍馬伝の通りです。商船の事業を興すために、龍馬が船を誂え、小龍が同志を育てるという盟契を交わします。
この安政元年の作品には、「納涼美人図」などがあります。p6885.jpg
安政3年に、漢学を学んだ儒学者岡本寧浦のところで共に漢学を学んだ清岡道之助の依頼により、門田為之助所有の「西洋戦争図」を模写しています。それは、ナポレオンの戦いの図で、土佐の勤皇の志士たちの間にナポレオン伝説が伝わっていたことがわかります。
ドラマの中で、亀をスケッチしていたのが、印象的だったのですが、確かに画稿の中に亀も描かれていました。風呂敷に描かれた亀も動き出しそうです。
「千萬之霊亀図」  明治19年(1886年)p6883.jpg
小龍は龍馬との盟契を果たすために、実業にも手を出しています。文久3年(1863年)、浦戸湾の長浜に塩田の事業を行っています。

文久4年・元治元年((1864年)1月、椙本神社に絵馬「翁図」を奉納。p6884.jpg
12月に京の鹿野安兵衛宅に寓しています。
徳島から技師を招き、塩田の事業を進めるために京に上り龍馬の支援を仰いだりしていたとありますが、4年で失敗に終わっています。
その頃、龍馬は薩長提携に成功しています。

          「河田小龍 幕末土佐のハイカラ画人」 より抜粋

2010年05月24日

-河田小龍-  本日 一休み

ちょっと、時間が押してきてしまいました(^^)
一休み、一休み・・・。

布袋之図  明治31年(1898年)p6886.jpg
                  皤山河小龍 画

2010年05月23日

龍馬伝 外伝 -河田 小龍 その1-

龍馬伝の中で、龍馬に影響を与えた人物の一人として、河田 小龍(かわだ しょうりょう、「しょうりゅう」とも)が、登場していました。リリー・フランキーの好演で興味を覚えたので、少し追っかけてみました。

文政7年(1824年)に生まれ、明治31年(1898年)に75歳で亡くなりました。幕末から明治前期にかけて活躍した土佐を代表する幅広い絵師でした。通称篤太郎、字は維鶴(これたず)、小梁、松梁、皤山、小龍と号するほか、20ほどの号があります。
高知城下東浦戸片町、現在の南はりまや町に、土生玉助維恒の長男として生まれ、祖父の川田金衛門の生家河田家を継ぎ川田姓を名乗ります。(のち河田姓に復す)。幼くして神童の誉れ高く、絵を嗜み13歳で、南画家の島本蘭渓に入門しています。
「島本蘭渓坐像」p6892.jpg
16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入って、本格的に漢学を学んでいます。この頃の作品に農夫図が残っています。銘が「翠竹」となっています。
「農夫図」p6893.jpg
同じ頃、小龍はひととき林洞意に学んだとも云われています。後に絵金と呼ばれる洞意は、江戸狩野派を習得し藩家老の御用絵師として知られていました。その後、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ、狩野派からも破門され、慶応年間より赤岡の地で、土俗的で血みどろの芝居絵を多く描いています。小龍も似通った芝居絵を残しています。
「神霊矢口渡」p6889.jpg
19歳の頃から、漢詩を作り生涯にわたり多くの作詩をしています。岡本寧浦に従い、鹿児島の蝦蟆島に出掛けたりもしています。
20歳を過ぎた小龍は江戸の谷文晁に師事しようとしますが、その死去を知り、断念します。
23歳の時、吉田東洋に従って、京都・大阪に遊学する機会を得ます。京都で、南画の中林竹洞に学び、大阪の篠崎小竹に学びます。そして、京狩野家九代目の狩野永岳に師事します。二条城の本丸御殿襖絵の大修理に師と共に従事します。
27歳の折、土佐に帰国した小龍は、私塾・墨雲洞を開きます。
嘉永5年(1852年)米国より帰国した漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べに当たり、その口伝を漂巽紀略に記しています。
「漂巽紀略」p6888.jpg
安政元年(1854年)図取り役として、薩摩の反射炉視察に赴き、「鹿州港脚之図」を描いています。

「鹿州港脚之図」p6887.jpg
帰路、長崎に遊び、木下逸雲に清朝画を学び、帰国の日に安政の大地震で、家屋を失っています。門田兼五郎の世話で、築屋敷の空家に仮住まいすることになります。そんな中へ、龍馬の来訪となります。
明日に続く・・・。

(絵の写真は、平成15年に高知県立美術館で開催された河田小龍展の図録より、コピーさせていただきました。)

2010年05月22日

御辰稲荷神社

東山丸太町を東へ、平安神宮の北にある御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ)は、宝永年間、東山天皇の側室・新崇賢門院の創祀です。祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天宇受賣神(あめのうずめのかみ)です。p6899.jpg
社伝によると、ある夜、新崇賢門院の夢枕に白キツネが立って、「禁裏御所の辰(東南)の方角に森があるから、そこに私をまつっておくれ。夢、夢、疑うことなかれ」と、お告げを残して消えたそうです。この狐が、琴を得意とする風流狐・お辰狐だったそうで、聖護院の森に小祠を建て御辰稲荷と呼ぶようになりました。森を通るとお辰キツネの琴の音がしたといわれています。p6898.jpg
江戸時代にはいって、御辰の″辰″は達成の″達″に通じると、願望成就に人々の信仰を集めるようになりました。p6897.jpg
「京の風流キツネは、碁の好きな宗旦キツネと、琴の上手な御辰キツネ…」と謡われ、芸事をする人たちが多く参拝したそうで、芸事上達・商売繁盛のご利益があります。p6894.jpg
境内には末社として、願をかけ石を授かったという説話から願い事が叶うとされる福石大明神の祠もあります。p6896.jpg
真黒の小石を持って参拝すると幸せになれるといわれています。

亀に似た大石を祀る亀石大明神や、「御辰稲荷」の「辰」にかけた辰年生まれの守護神「初辰大明神(はつたつだいみょうじん)も祀られています。p6895.jpg
いろいろなお狐さまが、あちこちで活躍していたのですね。


2010年05月21日

相槌稲荷

三条粟田口に、相槌稲荷さんがあります。p6904.jpgp6903.jpg
小ぶりな鳥居をくぐり、左に曲がって少し入ったところに神社があります。p6902.jpgp6901.jpg
お能の「小鍛冶」に出てくる三条小鍛冶宗近の相槌となって御剣を打った明神さんを祀ってあるところです。
「小鍛冶」
一条帝がある夜不思議な夢を見られたので、橘道成を勅旨として、名工三条小鍛冶宗近に御剣を打つことを命じます。
宗近は突然の宣旨を承ったものの、相槌を打つ者がいないため途方にくれ、氏神である稲荷明神へ祈願に出かけます。
すると一人の童子が現れ、不思議にもすでに勅命を知っており、君の恵みによって御剣は必ず成功すると言って安心させます。そして和漢の銘剣の威徳や故事を述べ、神通力によって力を貸し与えることを約束して、稲荷山へ消えて行きます。
宗近は七五三縄を張った壇をしつらえ支度を調えて、祝詞を唱えて待ちます。すると稲荷明神が狐の姿となって現れ、相槌となって御剣を打ち、表に小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を入れ勅使に捧げると再び稲荷山に帰ってゆきます。

道を隔てた南側、仏光寺や粟田神社のあたりが当時、宗近の邸があったところだそうです。p6900.jpg
こちらは、またの機会に・・・。

2010年05月20日

日向大神宮

蹴上浄水場の北側に、日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)があります。p6916.jpg
一の鳥居をくぐり、坂を登ると大神宮橋、そして二の鳥居が見えてきます。p6915.jpg
参道には、シャガが群生していました。p6914.jpgp6913.jpg
さらに坂道を登り続けて、左手に本殿への階段が見えてきます。p6912.jpg
顕宗(けんそう)天皇の時代に日向国(宮崎県)の高千穂峰から天照大神の神蹟を勧請したのが創建とされています。
階段を上ると、境内には、多くの神様が祀られていますp6905.jpgp6906.jpg
外宮p6911.jpg
さらに階段を上り、内宮p6910.jpgp6909.jpg
左の山道を少し上ったところには、天岩戸p6908.jpg
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伊勢神宮への代参として、また粟田口という場所にあることから、東海道を旅する人々の安全を祈願する神社として、古来より親しまれてきたようです。
境内は、帽子にスニーカー姿の山歩きの方々が行き交うぐらいで静かでしたが、茶屋などが並んでいたかつての賑わいを想像してみるのも楽しいものでした。


2010年05月19日

幸神社

幸神社(さいのかみやしろ)は、御所の北東、河原町通今出川上る幸神町にあります。p6921.jpg
ご祭神は、猿田彦神で、天孫降臨の途上、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、高天原から葦原中津国(日本)に向かわれたとき、分かれ路に立って道案内をされた神です。またこの社にお祀りされている天鈿女命と結ばれたことから、縁結びの信仰があります。p6920.jpg
この社は平安京の鬼門除けの守り神として、都の東北に建てられていました。都より出雲郷へ行く路を出雲路といい、そこに建つこの社を出雲のさいのかみと呼んでいたようです。
現在地への移転時期については、応仁・文明の頃兵火に罹り、それ以後に当地に遷座したと考えられています。
”おせきさん”と呼ばれている「陽石」が神社の鬼門の方角にあります。この石が平安時代のご神体であるといわれています。p6917.jpg
拝殿の前には鬼門封じの猿をモデルに描かれた絵馬が沢山かけられています。p6919.jpg
方除けと縁結び祈願によいようですね。

2010年05月18日

出町 妙音弁財天

鴨川の出町橋の西詰にある出町の妙音弁財天さんにお参りしました。p6927.jpg
琵琶を弾く女神様で、音楽の神様、あるいは芸能の神様として信仰されています。p6926.jpg
妙音弁財天のご本尊「弁才天画像」は、鎌倉時代に西園寺家のお姫様(西園寺寧子 広義門院)が後伏見天皇に嫁いだ際に、持参した「弁才天画像」だそうです。以降、琵琶の家元であった伏見宮家の守り神として、代々伝えられたものです。コピーが飾られていました。p6925.jpg
本物は相国寺の美術館に保管されていて、春季大祭(4月)とお火焚祭(11月)の時には、出町で御開帳されるようです。
江戸時代の伏見宮家はこの出町の地にあり、、「弁才天画像」もその屋敷内にまつられていましたが、明治に東京に移り、後に出町住民の請願を受けて再び京都に戻され、宮家の跡地に新たにお堂を作ってまつられたそうです。p6922.jpg
弁財天は、「京洛七福神」のお一人でもあり、水の神様でもあります。この地で都の水を守っているという意味合いもあるそうです。

反対側の座敷内には、本日18日の御霊神社のお祭りに使用するための太刀鉾が飾られていました。
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伏見天皇の御寄進によるものです。

奥には、お稲荷さんもありました。p6923.jpg

弁財天像はとても美しいお姿、お顔立ちで、心魅かれました。御開帳の折には、もう一度訪れようと思います。


2010年05月17日

今宮祭

5月5日に、今宮祭の神幸祭(しんこうさい)の行列が、店の前を通りましたが、16日は還幸祭(かんこう)さい)で、お旅所から本社へと、お神輿が還ってゆきました。神幸祭(しんこうさい)の行列にこども神輿や女性が担ぐ玉の輿神輿も加わってさらに、華やかになります。

16日 仕事中だったので、前半の玉の輿神輿や小さな八乙女(やおとめ)さんの写真は、撮れませんでした。p6933.jpg
毎年 牛車が目の前にしばらく止まって、後続の神輿を待ちます。
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神輿は3基です。p6931.jpgp6930.jpg
ラストはオープンカーの宮司さんです。p6929.jpg
そして、三枚の御札が手元に残りました。p6928.jpg


2010年05月16日

ふえふきねずみとあそびましょ♪ Vol.4

本日、5月16日(日) 福谷一美さんのコンサートが岡崎の原田観峰記念館にあるカフェ・ル・フジタで、午後3時より開演されます。

ふえふきねずみとあそびましょ♪ Vol.4 「いずれ菖蒲か杜若」 
と題してのフルートその他多数の笛と、ピアノの共演によるサロンリサイタルです。
昨年、お邪魔して、楽しく見・聴きさせてもらいましたが、今年は仕事中の為、伺えませんでした。
プログラムを送ってもらったので、ここに公開します。p6935.jpg
実は、裏面に私の花イラストが採用されています。p6934.jpg
いい感じじゃないですか(^^)って、自画自賛っぽい・・・。

2010年05月15日

柴田是真の漆×絵 その2

鴉鷺図漆絵p6943.jpg
金箔の上に白黒の鳥。右下の方に烏の羽毛が空中に舞っているのが、なんとも心憎い感じです。漆が絵に取り入れていることから、光沢と濃厚な色彩が画面に強さを生み出しているようです。

鴉に兎祝宴図p6942.jpg
兎の家に烏が婿入りしたという設定のようで、軽妙な筆使いが楽しい作品です。

蓬莱山図p6941.jpg

白蓮図p6940.jpg
花も葉も、その生の過程を画面に描きこんでいます。十六羅漢を模写した軸の左右に掛けるように造られた三幅対の軸です。

瀑布に鷹図p6939.jpg
滝の水面に顔が映っているのを、じっと見つめている親鷹とそれを見上げる子鷹という、おもしろいシチュエーションです。
部分p6938.jpg

波に貝尽図漆絵扇面p6937.jpg
貝は別紙が貼りつけられています。様々な技法を駆使して豪華に描かれています。

思わず、引き込まれてしまう魅力のある作品ばかりでした。工芸と絵画というジャンルを跨いだ作家であることや、幕末から明治という時代の間に生きたことなどから、美術史上から、忘れさられがちであり、作品の多くも海外に流出してしまっているようですが、再評価すべき作家に違いありません。

2010年05月14日

柴田是真の漆×絵 その1

相国寺承天閣美術館では、6月6日まで、「柴田是真の漆×絵」展が開催されています。p6949.jpg
この柴田是真という方は、幕末から明治にかけて活躍した漆芸家・画家ですが、なかなかユニークで興味深い人物です。まず絵師として高い評価を得、蒔絵師としても江戸随一の地位を獲得。さらに、和紙に漆を用いて絵を描く「漆絵」を発展させて、様々な作品を残しています。

竹葉文箱p6948.jpg
すっきりとしたデザインの中に、よく見ると竹の葉ごとに蒔絵や塗りを変えた細かい細工が施されていてます。竹製の蓋の木目が、竹そのものを暗示しているようです。

蟹文鐔p6947.jpg
金属製の刀装具を漆芸で、模倣しています。金属の冷たそうな質感を塗りで見事に表現している様もあ驚きですが、蟹が這い上がってきたように感じさせるユーモアに思わず笑ってしまいます。

鍾馗に鬼小柄
鉄錆塗という技法で鉄の小柄を模しています。鍾馗さんがにらみ付ける先に鬼が顔を出しています。

流水蝙蝠角盆p6946.jpg
美しい欅(けやき)の木目に、吉祥文様の蝙蝠が映える粋な作品です。

秋草印籠
蛍狩印籠p6945.jpg

花瓶梅図漆絵p6936.jpg
紫檀の木材の上に、蒔絵と漆絵を施した額のように見えますが、素材は全て和紙です。和紙に漆塗を施し、紫檀特有の木目を刀で彫って再現しています。そのため、450グラムしかない軽い作品です。

このように、漆をたくみに使って別の素材の工芸品を創出した作品が多く展示されていて、思わず触ってみたくなります。細かい細工を注視するあまり、仕切りのガラス面にぶつかりそうにもなりました。天眼鏡が、配されている作品もありましたが、持参するのも良いかもしれません。

明日は、絵画編です。

2010年05月13日

喫茶・虎屋菓寮

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虎屋ギャラリーの横には喫茶・虎屋菓寮があります。展覧会のあとには、やはりちょっとお茶したくなります。
傘立ても、洒落てますね。p6953.jpg
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モダンな建造物です。p6952.jpg
寄木を反らせた天井が印象的です。そして、虎屋印p6951.jpg
ガラス張りの向こうは庭に面した席が設けられて、芝生との境に水が張られています。p6956.jpg
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菓子や京都関連の書籍も多く置かれていて、ちょっとお抹茶で一服すると落ち着けます。


2010年05月12日

冨岡鉄斎展 虎屋

一条通烏丸西入るにある虎屋さんのギャラリーで、新装開店1周年記念として、冨岡鉄斎展が5月31日まで開催されています。
入場無料です。p6962.jpg
冨岡鉄斎は以前にも当ブログ内で紹介しましたが、室町通一条下がる薬師町に47歳の時に、転居して以来、終生この地で過ごしました。そして、虎屋さんと深く交流があったことから、その作品を所有されているそうです。
以下はパンフレットからのコピーです。

売茶翁図p6961.jpg
青緑山水図p6960.jpg
太田垣蓮月・冨岡鉄斎合作貼交屏風p6959.jpgp6958.jpg
太田垣蓮月の和歌に鉄斎が絵を添えた短冊、扇面などを屏風に仕立てたものです。
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よなよなに うちこそまされ からころも
   ころも更ゆく 秋しののさと
と書いてあるそうです。鉄斎の軽妙な絵が添えられていて、二人の暮らしぶりが窺えるようです。

2010年05月11日

大田神社 杜若

5月10日 大田神社 
杜若が見頃で、大勢の観光客やカメラマンで賑わっていました。p6975.jpg
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ちょうど小雨に洗われて、緑もしっとりとした風情を醸し出していたようです。p6973.jpgp6971.jpg
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2010年05月10日

「長谷川等伯」展 その5

第7章 松林図の世界
エンディングは、深い霧の中に浮かび上がる松林です。等伯の代表作でもあり、水墨画の最高峰とも評されています。
「松林図屏風」p6979.jpgp6978.jpg

「月夜松林図屏風」p6977.jpgp6976.jpg
等伯の周辺にいた有力絵師の作であろうといわれています。松林図屏風の構図を忠実に再現し、満月によって、夜の情景へと変貌させています。紙裏に墨を塗ることにより、夜の景観を効果的に演出しています。


2010年05月09日

「長谷川等伯」展 その4

第5章 信仰のあかし-本法寺と等伯-

等伯は生涯に渡り、篤く法華宗を信仰していました。慶長4年(1599)には、本法寺に自ら手がけた「仏涅槃図」を寄進しています。
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本法寺中興の祖とされる日通上人との間には、住職と信徒との関係というだけでなく、深い親交があったことが、寺に残された書簡などによって、うかがい知ることができます。上人の入寂に際し、等伯70歳の時に描いた肖像画や書簡が展示されていました。
「日通上人像」p6983.jpg

第6章 墨の魔術師-水墨画への傾倒-

祥雲寺の障壁画制作以降、その画事の中心は水墨画へと移っていったようです。透明感のある、力強い筆使いは桃山時代ならではの新しい水墨画ともいえるようです。
「山水図襖」p6982.jpg
「竹林猿猴図屏風」p6981.jpgp6980.jpg
薄明にただよう光と湿気を含んだような空気感の中に、親子の猿たちの睦まじい姿が印象的です。
「枯木猿猴図」p6986.jpg
後期は見逃しましたが、こちらの作品に展示換えされたようです。空間が乾いたような画面へと変化しています。この作品は、もと前田利長遺愛の屏風だったようです。
「烏鷺図屏風」p6985.jpgp6984.jpg

2010年05月08日

「長谷川等伯」展 その3

第4章 桃山謳歌-金碧画-

天正18年(1590)、等伯は造営奉行の前田玄以を頼り、狩野永徳一門が行っていた御所障壁画制作への割り込みを計ります。対屋と呼ばれる建物の障壁画制作です。
この企ては栄徳の必死の画策によって寸前で阻止されてしまいますが、等伯の存在がいかに大きなものになっていったかを物語っています。
その後、秀吉により、愛児・鶴松の菩提を弔うべく創建された祥雲寺の金碧障壁画を描くことになります。
「楓図壁貼付」p6991.jpg
「松に秋草図屏風」p6990.jpg
この他、桃山時代らしい金彩と壮大なスケールの作品が展示されていました。
「波濤図」p6989.jpg
「弁慶昌俊相騎図絵馬」p6988.jpg

2010年05月07日

「長谷川等伯」展 その2

昨日に続き、「長谷川等伯」展です。

第3章 等伯をめぐる人々-肖像画-

「日堯上人像」p6995.jpg
本法寺第8世である日堯上人の肖像画です。信春の生家 奥村家の菩提寺である本延寺の本山が本法寺であったことから、この寺の伝手によって上洛し、京都や堺で活動したと考えられています。

「千利休像」p6994.jpg
33歳という決して若くない年齢で、妻子を連れて上洛した信春の心境はどんなものだったのでしょう。自信と不安の入り混じったものであったのか、よく分かりませんが、能登時代と同じように細やかな描写の中に、描かれた人物の性格もよく描かれているように思います。

春屋宗園像p6993.jpg
画壇に何の足がかりもなかった等伯は、絵師として僧侶、武将、町衆と関わりを持ち、肖像画を手がけ、交流を深めてその活動の幅を広げていったようです。

「稲葉一鉄像」p6992.jpg
「頑固一徹」の言葉がこの人 一鉄の名前に由来するとされる事がうかがい知れるような感じが愉快ですね。

2010年05月06日

京都国立博物館「長谷川等伯」展

9日までとなりました「長谷川等伯」展ですが、前期の4月20日に訪れていました。桜の記事に押し出され、延び延びになっていました。
この日は雨天にも関わらず、1時間待ち状態で寒い中、うねうねと行列に並ぶことになりました。
音声ガイドをつけたのですが、18点の作品に対する解説で、ちょっと少ないのではないかと感じました。もっとも、語りは元NHKアナウンサーの松平定知さんだったので、「その時、歴史が動いた」という感じで嬉しかったのですが。
入場制限しながら館内に入るようになっていたので、展示はそこそこじっくり観ることができました。
第1章から第7章までに区切られての展示でした。今日は2章までのご紹介とします。

第1章 能登の絵仏師 長谷川信春

能登七尾に生れた等伯は、はじめ「信春」と名乗り仏画を描いていたようです。能登地方を中心に富山、新潟などに十数件の作品が残されています。
生家の奥村家、養子として迎えられた長谷川家ともに日蓮聖人を篤く信仰し、等伯自身も熱心な法華信徒でありました。絵師としての活動と、自らの信仰が密接に結びついていたようです。作品は、どれも緻密な書き込み、繊細な装飾、豊かな色彩あふれる完成度の高いものです。
作品は買い求めた図録よりのコピーです。
十二天像のうちの 「羅刹天像」p7002.jpg
十二天像のうちの 「梵天像」p7001.jpg
「日蓮聖人像」p6999.jpg
「善女竜王像」p7000.jpg
第2章 転機のとき-上洛、等伯の誕生-

元亀2年(1571)、33歳で、妻と幼い子息・久蔵を伴い上京した等伯は、本法寺の世話になりながら活動を始めますが、天正17年(1589)の、大徳寺三門の壁画制作の要請、同寺の塔頭・三玄院の水墨障壁画制作など、有名絵師の仲間入りを果たすまでの間の消息ははっきりしていません。
「牧馬図屏風」p6998.jpgp6997.jpg
山水図襖p6996.jpg
こちらが、三玄院の方丈を飾っていたものですが、春屋宗園に襖絵は入らないと断られ続けていたものを、春屋の留守中に上りこみ、一気に書き上げたものだといわれています。雲母刷り桐文様の唐紙の上への描画ですから、確かに不自然です。なんとしてもその力量を認めてもらいたかった田舎から出てきた絵師の心意気が伝わるようです。

2010年05月05日

高岡観光

5月2日、早くに高岡に着いたので、迎えに来てもらった叔父の車で、少々観光してみました。

高岡大仏p7012.jpg
奈良の大仏、鎌倉大仏に次ぎ、日本三大大仏に挙げられることもあるようです。伝統の銅器製造技術の粋を集め、30年の歳月をかけて完成いたものです。結構、男前です。
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高岡古城公園 前田利長公が築いた高岡城の城跡を公園として残したものです。p7010.jpg
本丸の跡地に射水神社があります。p7009.jpg
神社横の公園には、利長公の像が造られていました。p7008.jpgp7007.jpg
公園は3つの水濠に囲まれています。ほとんど築城時のままに残されているようです。p7003.jpg
城の設計は、キリシタン大名であり、築城の名手として有名な高山右近といわれています。大手口を入ったところに銅像が建てられていました。p7006.jpgp7005.jpg

富山湾 海王丸パークp7004.jpg
海の貴婦人と称される海王丸ですが、帆が張られていなくてちょっと残念でした。


2010年05月04日

いきなり、撮り鉄? 車椅子でJR

5月2日 サンダーバードに乗って、所用で富山県高岡市まで行ってきました。p7018.jpg
一ヶ月前の10時から1~2時間、JRに電話をかけ続け、やっとゲットしたのが、サンダーバード1号 京都発7時38分でした。そんなに早い時間帯じゃなくてよかったのですが、なにせ、ゴールデンウイークですから、しかたないのでしょう。p7017.jpg
昨年より、車椅子状態となった高齢の父との二人旅です。駅での乗車介助を前日に予約しておきました。日頃、たいした事のないように感じていた乗車口の段差ですが、車椅子となると、やはり結構な段差です。p7016.jpg
やっと繋がった予約の電話口で、車椅子の身障者と介助者の二人ということで、車椅子対応トイレが近い事を条件に、座席を予約したのですが、希望の時間帯の電車の席はすでになく、7時の電車なら身障者席はすでに取れないが、同じ車両の反対側の1番座席なら、座席の後ろに車椅子をたたんで入れておけるから、大丈夫との事でなんとか取れた座席でした。
板を渡してもらって、乗り込んだまではよかったのですが、通路のドアのところで、先に進めない事に気が付きました!p7015.jpg
座席間が車椅子の幅より少しばかり、狭かったのです。取り合えず、バックして、自分が先に入り、父を立たせて抱え込み、3、4歩歩いてもらい席に座る事ができました。車椅子を座席の後ろに仕舞いこみ、これで、OKと安心したのもつかの間、大きな問題点に気が付きました。
身障者用トイレは反対側にしかなく、通路は車椅子の通る幅がなく、今入ってきたドアの向こうには、普通のトイレすらないのです。結果、3時間の乗車時間中、あまり水分を取らないようにして、我慢するという選択肢を取りました。
車椅子対応トイレp7014.jpgp7013.jpg
帰路は、親戚の車に乗せてもらう予定にしていたので、その車に積めるサイズの小ぶりの車椅子をレンタルして行ったのですが、電車の通路の事を考えに入れていませんでした。自分で運転するためのハンドルを取り外しておけば、なんとか、通れたのかもしれません。
帰ってからネットで調べたのですが、新幹線などの一部の車両には、通路に合わせた車椅子の備えがあるようですが、サンダーバードにはありませんでした。
同じ車両に乗り合わせた障害者の方は、電車旅行慣れしてらっしゃるようで、慣れれば大丈夫とおっしゃっていました。確かに、慣れさえすればトラブルも減るのでしょうね・・・。

2010年05月03日

花 イラスト シリーズ ~5月 花菖蒲 ~

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2010年05月02日

京都の桜 2010 妙蓮寺 散り桜

今年も長々と桜を追いかけてきましたが、妙蓮寺の散り桜を最後にしたいと思います。
4月30日 早朝
普賢象p7027.jpgp7026.jpg
たんぽぽさん、こんにちわ
そして さようならp7028.jpg
関山p7025.jpgp7024.jpgp7023.jpgp7022.jpg
季節は確実に変わってゆきます。
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2010年05月01日

上御霊神社 一初

4月26日 上御霊神社では、一初が咲き始めていました。
境内外の東の方のみの開花で、西の方や、境内の中はまだ蕾固しといったところでしたから、このゴールデンウイークあたりはちょうどいい感じになっているのでは?と思います。p7035.jpg
仲良く並んでいるのも。「はい、押さないでね~。」p7034.jpg
右の蕾「ねえ、明日あたり、咲く?」
左の蕾「う~ん、考え中。」p7033.jpg
サイケバージョンp7032.jpgp7031.jpg
境内の青かえでp7030.jpg
近くの猿田彦神社もp7029.jpg