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2009年09月11日

薬子の変と斎王

弘仁元年(810年)9月11日、平城上皇と嵯峨天皇の間に対立関係が生じた薬子の変が終結しています。

退位した平城上皇は旧都平城京へ移った後、嵯峨天皇と対立するようになり、復位を考えるようになりました。
二所朝廷の対立が深まる中で、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、これを知った嵯峨天皇は素早く対応、征夷大将軍・坂上田村麻呂と藤原北家の藤原冬嗣を平城京へ派遣しました。
平城京の周囲の関所を速やかに封鎖、平城上皇が地方から兵隊を集められないようにし、藤原仲成を捕らえ降格処分とし、藤原薬子は内侍の役職を剥奪し平安京を追放します。

平城上皇は藤原薬子と共に手近な兵を集めていったん東国に出て再起を図ろうとしますが、嵯峨天皇は9月11日に藤原仲成を処刑、坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させ、平城上皇の進路を阻みます。

動きの取れなくなった平城上皇は平城京に戻り、内乱は終結します。
9月12日に藤原薬子は自殺、平城上皇は剃髪して仏門に入ります。

嵯峨天皇は、この対立に際し、空海に、上皇をそそのかしている者たちの調伏を依頼していますが、
賀茂大神にも「もし我に利あらば、皇女を"あれおとめ"として、奉仕させる」という誓いを立てました。
そして勝利を収めた事により、伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立、嵯峨天皇の皇女である「有智子内親王」を初代賀茂斎王として卜定させ、平安京の安泰を祈願しました。

紫野の斎院跡 上京区上御霊前通智恵光院東入(櫟谷七野神社内)p8581.jpg
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comments

賀茂の斎院が出来た背景、初めて詳しく知りました。
いっぱい知らないことが出てきて、こちらに来るのが楽しみです。

歴史を掘り起こしてゆくと、いろんな出来事や人間関係が浮かんできて繋がり、興味が尽きません。学生時分は、そんなにも思わなかったのですが・・・。

  • zuzu
  • 2009年09月12日 09:43
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