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2009年09月28日

後土御門天皇

明応9年9月28日(1500年10月21日) 室町時代の第103代天皇 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう )が亡くなりました。
在位は、寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)です。

応仁の乱が、応仁元年(1467年)(人の世むなし)から10年間ですから、在位の前半は乱の真っ只中であった訳です。p8489.jpg
文正2(1467)年正月17日、山名宗全の進言により将軍義政に出仕を禁じられた畠山政長は、自邸に火を放ち、内裏の北東に位置する御霊林(現在の上京区上御霊神社附近)に陣を張りました。これが、応仁の乱の発端です。p8488.jpg
将軍・足利義政は土御門東洞院殿(現在の御所)にあった後土御門天皇と後花園上皇をともに室町殿に移しました。
政長の撤退により、天皇はもとの内裏へ戻りますが、5月に細川勝元と山名宗全がそれぞれに与(くみ)する守護大名を全国から集め、東軍・西軍となって対峙する事となり、勝元は天皇と上皇を室町殿に向かえ、西軍を賊軍としようとしました。
これにより約10年間、天皇・上皇・将軍が同じところに住まいする事となり、天皇は何度も譲位を考えるほど身の上を憂う事となりました。
文明8年(1476年)室町殿の類焼により、あちこちを転々とし、12年に修理の済んだ土御門内裏に還幸する事となりました。中絶していた儀式の復興に尽力しましたが、費用の捻出が難しく、思うようには運びませんでした。享年58歳で崩御された時も、葬儀の費用がなく40日も御所に遺体がおかれたままであったという事です。
伏見区深草坊町の深草北陵に葬られ、遺骨の一部は、父・後花園天皇と同様に、上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨されました。p8487.jpg
写真は千本今出川東入るにある般舟院陵です。

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