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2009年10月29日

武野 紹鴎

室町時代後期 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日)、堺の豪商で茶人の武野 紹鴎(たけの じょうおう)が亡くなりました。茶道中興の祖といわれています。


上洛して連歌師を志し三条西実隆に学ぶかたわら、村田珠光の愛弟子である藤田宗理に茶の湯を学び、連歌の美意識をもって、珠光の侘び茶をより深める事となりました。

定家の『詠歌大概之序』の講義を聞き、

見渡せば 花も紅葉も なかりけり
     浦のとまやの 秋の夕暮

この定家の歌のなかに草庵の侘び茶の理想を見いだしたと云われています。

享禄5年(1532年)、世俗を棄て茶人として生きようと剃髪し、紹鴎と名乗ります。
このとき
種まきて おなじ武田の 末なれど
    荒れてぞ今は 野となりにける
と詠み、姓を武田から武野に変えたそうです。

後に堺に戻り、父が経営していた皮革問屋を引継ぎますが、経営は番頭たちに任せ、ひたすら堺の茶道の興隆と門人の育成に尽力しました。その一人が千利休です。

中京区室町通四条上る東側に菊水の井と呼ばれた名水があり、この地に紹鴎の邸宅があったそうです。p8162.jpgp8161.jpg

隣に夷堂があったため恵比寿大黒に掛けて「大黒庵」と名付けられたという事です。
「菊水」と掘り込んだ石の井戸枠が発掘されています。
菊水の名は能楽「菊慈童」にある菊の露を飲んで不老不死となったという中国の故事に起因しています。
祇園祭の「菊水鉾」はこの名水に因んでいます。

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