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2010年02月20日

惟喬親王

寛平9年2月20日(897年3月30日)、平安時代前期 文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)が亡くなりました。
文徳天皇が、皇太子として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てたため、惟喬親王は、第一皇子でありながら、皇位を継承できませんでした。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方の惟仁親王の母が権勢高い藤原良房の娘 藤原明子であったためです。天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子としました。この方がのちの第56代清和天皇です。

惟喬親王は、太宰帥、弾正尹(だんじょうのかみ)、常陸守、上野守、など諸国の国主を歴任した後、都から離れた辺境の地を転々と隠棲し、28才の時、剃髪して出家し、小野の里に幽居されました。小野の宮と呼ばれていた親王は、54才で亡くなりました。京都雲林院の傍らにしばらく住まわれたこともあるようです。

江州・小椋庄へ移られ、轆轤(ろくろ)を開発して、緒山の木地屋に使用を教えられたという話もあり、轆轤の始祖として崇拝されています。

在原業平が、親王と親しく交わっていた事が伊勢物語に記されています。惟喬親王の母と業平の義父紀有常は兄妹の関係である上に、不遇な境遇に相通じるところがあったのかもしれません。
業平は惟喬親王のお供をして、親王の水無瀬の別邸から、川向こうの交野の渚の院に至り、今や盛りと咲き匂う見事な桜の木の下で、下記の歌を詠んでいます。
世の中に たえて桜のなかりせば 
    春の心は  のどけからまし

冬の日に親王を訪ねた折に、業平の詠んだ歌もあります。
忘れては 夢かとぞ思う 思ひきや
   雪ふみわけて  君をみんとは

親王は
夢かとも 何か思はむ 浮世をば 
   そむかざりけむ 程ぞくやしき

と返歌されています。

この親王をお祀りしているのが、北区紫野雲林院町(北大路通り猪熊下ル)にある玄武神社です。 p7659.jpgp7658.jpgp7657.jpg

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comments

玄武さんの御祭神のことは知っていましたが、此処まで詳しくはありませんでした。
鳳徳国民学校の氏子としては落第かな?

やすらい祭の追っかけは、いつもされてますよね。お家にいても、祭りの音が聞こえるぐらい身近な存在ですものね。私はまだ生で見た事がないので、残念ですが、フクロウさんのブログで、楽しんでいます。

  • zuzu
  • 2010年02月22日 11:14
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