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2010年03月10日

足利義輝

天文5年3月10日(1536年3月31日)第12代将軍・足利義晴の嫡男 足利義輝が、東山南禅寺で 生まれました。天文15年(1546年)、義輝はわずか11歳の時に、父から将軍職を譲られます。
直属の軍隊と領地を持っていなかった室町幕府は、応仁の乱以降、権威は地に落ち、大名家の権力闘争によって、担ぎ上げられたり追放されたりを繰り返し、戦乱と混乱の中のありました。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しました。
輝の字を、毛利輝元・上杉輝虎(謙信)らに与えたりもしています。上杉謙信が上洛して拝謁しているのは、この義輝です。その邸は現在の平安女学院のあたりであったそうです。p7534.jpg
(下立売室町下る)
p7533.jpg
永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀と三好三人衆が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄(第14代)を奉じて謀叛を起こした永禄の変により、この邸で暗殺されています。剣豪であった義輝は足利家秘蔵の太刀を何本も周囲に突き立てておいて、刃こぼれするたびに太刀を取り替え、寄せ手の兵と斬り合ったと云われています。そういえば、そんなシーンをテレビで見た記憶があります。
辞世
五月雨は 露か涙か 不如帰 
   我が名をあげよ 雲の上まで

このとき焼けてしまった二条ノ御所の跡地に信長は義輝の弟・義昭の城を2ヶ月という短期間で造営し、第15代将軍家のご本拠としました。第14代義栄将軍は一度も入京することなく病死しています。
その後、当の信長に追われ、義昭もこの地を後にし、室町幕府は崩壊しました。

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