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2010年06月13日

龍馬伝 外伝 -六角獄舎跡-

神泉苑通六角西入るの武信稲荷神社手前、南側のマンション前に「勤王志士平野国臣外数十名終焉之地」という石碑が建っています。p6784.jpg

ここは、平安京の左獄が転々と移転し宝永5年(1708年)の大火で焼失した後、この地に移された獄舎があった場所です。六角通に面していたので、六角獄舎と呼ばれました。安政の大獄以後、多くの勤王の志士が投獄されました。
お龍の父、楢崎将作も志士を支援した医師として、ここに収監されました。父を気遣い、武信稲荷神社までやってきていたお龍の話はこちらです。http://www.zuzu.bz/ownerblog/2010/01/post_426.html
文久3年(1863年)生野代官所を襲撃して生野の変を起こした平野国臣は、失敗してこの獄に捕われました。p6788.jpgp6787.jpg
翌年、元治元年に起こった蛤御門の変で、京都は火の海と化し六角獄舎にも火の手がせまったので、入獄中の志士30数名は獄庭に引き出され、「脱獄のくわだて」を理由に次々斬罪に処されました。その際、国臣は皇居を遥拝し、
見よや人あらしの庭の紅葉は
   何れひと葉もちらずやはする
と朗詠したそうです。p6785.jpg
そして、ここは近代医学発祥の地でもあります。宝暦4年(1754年)、山脇東洋が京都所司代の許可を得て、死刑囚を使い、日本で初めて人体解剖を行いました。p6786.jpg

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