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2010年07月13日

上田秋成 その5 皆川 淇園

上田秋成の晩年の随筆「胆大小心録」の中で、秋成は交友のあった人々のことを、結構好き勝手にコメントしています。儒者で、多数の門弟を擁していた皆川 淇園(みながわ きえん)(通称は文蔵)とも長いつきあいであったようです。

皆川文蔵か、度々あふことに、とうしや、おやち、となふらるる事しや。同年、髪かくらうて、歯が落いて、杖いらすの目自慢いや有た。いつその出会に、とうやら骨が細うなつた、さきへお死にやろ、念仏申てやろ、といふたか、はたしてそのとをりしやあつた。講堂もしつくい、溝の曲水も犬のくそのたまる所になつたよし。あほうにはちかいはない。

と、あほう呼ばわりしています。

淇園は、東福門院に典医をつとめた皆川成慶(春洞、白洲)を父とし、京都に生まれました。実弟は国学者 富士谷成章で、ともに幼少より秀才のほまれ高き人物です。晩年、邸内に私塾弘道館を開きました。門弟は3千人余りといわれています。上京区上長者町通室町西入北側にその石碑が建っています。(『平安人物志』等では中立売通室町西入と記されているようです。)p6620.jpg
文化4年(1807)5月16日、74歳で亡くなり、寺町今出川上るの阿弥陀寺に葬られました。

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