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2010年07月17日

名和長年戦没地

上京区大宮通中立売上る東側の一条院跡と書かれた名和児童公園は、また名和長年の戦没の地ともされています。p6608.jpg
伯耆国出身の武将で、隠岐を脱出した後醍醐天皇(1288~1339)を、伯耆(ほうき)の船上山に迎え、京都六波羅を攻めました。p6604.jpg
建武政権の記録所・武者所の寄人となりましたが、建武3年(1336)、九州から京都へ攻め入った足利尊氏の軍との内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。p6607.jpg
この戦没地については、「太平記」の「内裏のの後街(一条大宮)」説と「梅松論」の「猪熊三条」説がありましたが、明治初年に井戸から鎧の一部が発見されたことから、明治19年にこの地であるということになりました。p6606.jpg
後醍醐天皇の信頼厚い長年は、伯耆(キ)守であったことから、楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称されました。
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海運業に関わっていた名和氏らしい「帆掛船」の紋は天皇から賜ったということです。

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