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2012年04月12日

2012 京の桜 岡崎

4月10日 得長寿院跡6-470.jpg
岡崎の東大路通と疎水とが交差するこのあたりは、清盛の父、忠盛が天承二年(1132)、鳥羽院の勅願により得長寿院を造営寄進した跡地です。
『平家物語』巻第一「殿上闇討」の段に、「忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一躰の御仏をすへ奉る。」と書かれている地です。これにより但馬国の国守に任じられ、殿上人となり昇殿を許されたのは、先の大河ドラマに描かれていました。6-471.jpg
ここから、東へ疎水を曲がり、京都会館あたりまでが尊勝寺跡とされています。  康和四年(1102)堀河天皇の御願寺です。
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疎水後ろの旧武徳殿あたりは美福門院が創建した歓喜光院(かんぎこういん)があったあたりです。6-466.jpg
疎水を曲がって南にある平安荘あとの桜6-467.jpg
平安荘は現代にあったもので、平安時代の跡地の名称ではありません。今年は門が開いていなかったので、塀越しですが、足元まで、垂れ下がった枝振りが見事な桜です。6-468.jpg

平安神宮6-464.jpg
左近の桜はまだでしたが、入って右手の桜は見頃を迎えていました。6-463.jpg6-462.jpg
この桜のたたずまいも、やはり毎年見逃いたくないものです。
平安神宮前の道をさらに東へ、観峰美術館のさらに東に満願寺があります。6-458.jpg
門をくぐって左側には文子天満宮6-457.jpg
この辺りは法勝寺跡です。藤原氏の別荘だったものを師実が白河天皇に献上し、法勝寺が建立されました。6-461.jpg
この法勝寺の執行であったのが、後白河上皇の側近の僧である俊寛です。6-460.jpg
この石標は,俊寛の居所である法勝寺の跡を示しています。
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桜の足元にあるのが、法勝寺の井戸といわれ、俊寛荒行の井戸とされています。
「鹿ヶ谷陰謀」を企てたうちのひとりである俊寛は、自らの山荘で平氏打倒の密議を行い,その首謀として薩摩国鬼界島(現鹿児島県硫黄島)に流され、恩赦の際にも一人島に残され亡くなっています。

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