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2009年05月21日

花山天皇陵

北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)に花山天皇陵があります。
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花山天皇は、安和元年(968年)冷泉天皇の皇子として、藤原懐子(かいし:太政大臣藤原伊尹の娘)との間に生まれました。
安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。
17歳で即位の時には既に外祖父伊尹は亡くなっており、有力な外戚を持たなかった。
寛和2年(986年)寵愛した女御藤原?子が妊娠中に死亡。
19歳の若さで宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位しました。

藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を即位させる為に陰謀を巡らした為と言われています。
兼家の息子の道兼が、御出家されて女御様の菩提を弔われるようにと勧め、その説得に心を動かされた花山天皇は、道兼の導きで秘かに宮中を脱出。ところが剃髪の直前、道兼は「父に最後の挨拶をしたいので」と言い出し、寺を立ち去り、あざむかれたと気づいたという事です。
その道中を、護衛していたのが、源満仲や、源頼光だったようです。
安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。」と晴明の声が聞こえたという話で、花山天皇の退位を予知した逸話が晴明神社にあるパネルに記載されています。
在位中も退位後も、女性がらみの逸話が多いようですが、芸術的才能の持ち主でもあり、優れた歌人でもあったようです。
木(こ)のもとを すみかとすれば おのづから
            花見る人と なりぬべきかな
出家後、各地を仏道修行していた頃、桜の花の下で一休みしての歌です。
寛和元年(985年)の桜の時期に平野神社で祭りを行ったという事で、花山天皇が桜の木を自ら手植えしたという話も残っています。
西国観音巡礼の再興者で、寛弘5年(1008)2月8日、四十一歳で亡くなっています。

長き夜の はじめをはりも しらぬまに
            幾世のことを夢にみつらん

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