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2009年06月03日

光琳・乾山忌

昨日、6月2日は、尾形光琳・乾山兄弟の命日でもあり、上京区寺之内通小川東入北側にある大本山妙顕寺の塔頭・泉妙院では、光琳・乾山忌が営まれました。P9271.jpgP9270.jpg
光琳は 享保元年6月2日(1716年)、乾山は寛保3年6月2日(1743年)死亡とされています。
光琳は万治元年(1658年)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれました。光琳30歳の時、父が死去。雁金屋の経営は破綻していたが、遊び人であった光琳は兄藤三郎とともに遊興三昧の日々を送っていたため、智恵光院通中立売下がる西側にあった広大な屋敷を売り払い、上京藪内町とよばれていたところに転居することになりました。上御霊神社の鳥居から北西の方角にその屋敷跡の石碑が立っています。P9266.jpgP9267.jpg
40歳前後から、画業に力をいれるようになり、遊び人ならではの軽やかさや、華やかさのある作品を多く残しています。「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」などは、最も有名な作品ですね。

いっぽうの乾山は三男として生まれ、兄・光琳とは対照的に、地味なイメージがあります。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んでいましたが、この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、仁清から本格的に陶芸を学んだようです。37歳の時、二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与え、ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから、「乾山」と号し多くの作品を手がけています。
乾山が器を作り、光琳がそこに絵を描くという兄弟合作のスタイルの作品も有名です。二人がどんなやりとりをしながら、作品作りをしていたのか、興味深いですね。

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