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2009年07月08日

平滋子(建春門院)

安元2年7月8日(1176年8月14日)、後白河天皇の譲位後の妃であり、高倉天皇の生母である平滋子(建春門院)が亡くなっています。
低い身分から美貌と才覚、時の運によって権力者の寵姫となり、政治の上でも発言力を持ち、若くして亡くなった女性です。平清盛の妻 時子は異母姉にあたります。
院の御所である法住寺殿に住まいしていました。P8979.jpg
東山の三十三間堂の東隣にある法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設され、この寺を中心に、法住寺殿がいとなまれました。木曾義仲によって焼き討ちされ、後白河上皇の亡くなったのち、法住寺は上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続しました。明治期に御陵と寺が分離されて現在にいたっています。現在改築中です。
蓮華王院(三十三間堂)は、もともとこの寺の御堂であり、法住寺殿は広大な敷地であったようです。
法住寺の北側に後白河上皇の御陵に向かう参道があります。
P8981.jpg女御の御陵として法華堂が建てられ、後に上皇の法華堂が建春門院の法華堂の南側に建てられ、蓮華王院に対面して二堂が並立していたと推定されているそうです。ということは、現在の養源院のあたりに女御の御陵があったのでしょうか?
P8980.jpg
上皇が滋子を伴って熊野参詣を行った際のエピソードに、熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに突然大雨が降ったが、いささかもたじろがず舞を続けたというものがあります。信念が強く、気丈な性格であったようです。
滋子は平家一門の繁栄に大きく貢献しています。姉の時子の夫である清盛と後白河法皇の関係の親密さも、滋子の影響が大であったようで、その死後、後白河法皇は、清盛を遠ざけ、平家一門の勢力の削減に向かっってゆきます。

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