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2009年07月11日

保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年7月に崇徳上皇と後白河天皇が対立して、上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件です。P8965.jpg7月11日(1156年7月29日)未明寅の刻(午前4時)、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて、崇徳上皇側の本拠地である白河北殿を奇襲しました。P8966.jpg
白河法皇が造営した御所・白河北殿跡の石碑は、京都大学熊野寮内の角っこにあります。

後白河天皇の本拠地は中京区姉小路通釜座東入ル北側にある高松神明社のあたりで、天皇の内裏となっていた高松殿でしたが、手狭となり、戦闘のさなかに、御池を渡った東三条殿に移っています。

双方ともに、夜討を仕掛ける案を出していたのですが、上皇側は、「夜討は身分のある人のすべきことではない。まして今回は、かしこくも上皇様と天子様のお国争いの御合戦である」として却下されたのに対して、天皇側は認められ、さらには火をかける事も認めたことが大きな勝因となっているようです。

ちょっとした判断の違いが、歴史を大きく動かしてゆく事になるのですね~。

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