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2009年08月23日

一遍上人

正応2年8月23日(1289年9月9日)時宗の開祖である一遍上人は亡くなりました。

延応元年(1239年)伊予国の豪族の子として生まれ、10歳の時の母の死をきっかけに、出家しています。
25歳の時、父の死に際し還俗して家督を継ぎ、豪族武士となりますが、33歳で再び出家し、伊予を出ます。
「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。
熊野本宮に向かう道中、1人の僧に、信心の気持ちがおこらないからと、念仏札の受け取りを拒否され、自身の布教の仕方に疑問を感じます。
熊野権現から、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」とのお告げを受け、念仏を無理に強いるのでなく、皆が自然に念仏を唱える気持ちになるように、導くことが肝要であると気付きます。
さらに諸国を巡るうち、人々が念仏を唱えながら、感極まり踊りだすようになり、それが踊り念仏の始まりとなります。
弘安7年(1284年)上洛して、四条京極の釈迦堂に入り、都の各地で布教活動を行ないます。
中京区四条通新京極上ル西側にその念仏賦算遺跡の石碑が立っています。P8662.jpg

 *四条京極の釈迦堂というのは、染殿院のことで、路地を入ると奥にお堂が再建されています。安産 守護の、そめどの地蔵尊が祀られています。
 *賦算(ふさん)とは南無阿弥陀仏と書いた算(ふだ)を配ることです。
 
応長元(1311)年、その教えを継ぐ金蓮寺が、染殿院のすぐ北側に創建され、時宗四条派の本山となり四条道場と称されました。現在は北区鷹峯に移っています。

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