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2009年09月22日

応天門の変

平安時代前期 866年(貞観8年)9月22日、伴善男らが応天門の放火の犯人であるとして、流罪が言い渡されました。
応天門は朝堂院(大内裏の正庁)の正門であり、朱雀門のすぐ北にありました。
中京区丸太町通千本西入る北側に朝堂院跡の石碑が建っています。この変の際に炎上し、再建されましたが、安元3年(1177年)の大火で、焼失しその後は再建されませんでした。p8538.jpg
平安神宮 応天門 平安京の応天門を5/8のサイズで模したものだそうです。p8537.jpg

4月28日(貞観8年閏3月10日)、応天門が放火炎上する事件が起き、朝廷は大騒ぎとなりました。

ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発し、藤原良相は源信の逮捕を命じて邸を包囲しましたが、太政大臣 藤原良房の進言で無罪となりました。

その後、備中権史生の大宅鷹取が応天門の前から伴善男とその子・伴中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出たため、伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となりました。

伴善男は、犯行を認めませんでしたが、放火犯と断定され、伊豆へ流罪となり、伴氏(大伴氏)は没落しました。

藤原氏による他氏排斥事件のひとつとも見なされています。

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