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2009年11月14日

金福寺 村山たか女

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金福寺の門の左手に村山たか女が建てて、住んでいたという弁天堂がありました。
たか女が芸妓の頃、ひいきにしていた織物問屋を営む豪商が建てたという話です。

たか女は、文久2年(1862)11月14日の夜、隠れ家で捕らえられ、三条河原に襦袢一つの姿で3日3晩、生き晒しにされました。
尼僧に救われて出家。明治9年に没するまでの14年間の余生を金福寺にて過ごしています。享年67歳でした。
入って、左手に身代わり地蔵さんが安置されていました。p8045.jpg
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たか女の出生は、近江国犬上郡、多賀大社の尊勝院主・尊賀少僧都と般若院の娘との間に生まれたという説や、多賀大社の社僧と多賀の色町の芸者との間に生まれたという説などがあります。
いずれにしても公言できる出自ではなく、養女に出されたという事です。
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18歳の時に井伊直弼の兄で後の第12代彦根藩主・井伊直亮に仕えましたが、そこを辞して祇園で芸妓となっています。
金閣寺長老・永学の子・常太郎(後の帯刀)を生み、世間体を憚った永学により、金閣寺の寺侍・多田源左衛門と結婚することになります。
この結婚は長くは続かず、たか女は常太郎を連れて近江国へ戻ることになります。

その頃、井伊直弼は、彦根藩主井伊直中の14男坊に生まれ、わずか三百俵の捨扶持で、自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけた住まいで鬱々とした日々を過ごしていました。
その埋木舎で、たか女は、直弼と直弼の後の腹心となる長野主膳と出会います。

不遇の時代の直弼の5歳年長の妾 たか女は、兄・直亮の嫡男と直亮の死が相次いだため、36歳にして第13代彦根藩主の座に就くことになった直弼に次第に疎まれるようになったようです。
たか女と常太郎母子は、長野主膳の保護の下、細々と暮らす事になります。

その後、大老職に就いた直弼は尊皇攘夷派への弾圧を強めます。安政の大獄です。

時を同じくして、たか女は京に出て、スパイ活動を開始しています。馴染みのある京で志士や公家などの情報を収集して長野主膳経由で直弼へ知らせたり、長野主膳と九条家家臣・島田左近との連絡係などを担っています。

万延元年(1860)桜田門外の変で、直弼が殺され、文久2年(1862)島田左近が殺され、翌月に主膳も藩命により斬られ、その3ヶ月後にたか女も捕らえられる事になりました。翌日おびき出された息子 帯刀も斬られてしまい、53歳のたか女は、「死罪1等減じ」、1人生き残ることになります。
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この寺で、彼女は日々何を想い、考え、暮らしていたのでしょうか?美しすぎる尼僧で、修行の妨げになるからと、最初の寺を追い出されたという話も残っています。
生まれ年の干支である巳に守られていると信じていた たか女は、金福寺に巳にまつわる品々を遺しています。結構、リアルな巳が飾られていて、なにやら象徴的な印象を受けました。

柴の戸の しばしと云いて もろともに
いざ語らはん 埋火のもと
       井伊直弼
直弼直筆のこの和歌も、たか女の遺品として、掛けられていました。

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