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2010年01月23日

寺田屋 龍馬襲撃

慶応2年1月21日(1866年)薩摩藩と長州藩の間で同盟が結ばれました。p7763.jpg
長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)が、その一切の約定を記した書状を坂本竜馬に送り、裏書を求めました。約定に間違いないという朱筆の裏書を、龍馬が書き記したものが、宮内庁書陵部に現存してます。この裏書を書く前に、龍馬は、襲われているようです。
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慶応2年1月23日、伏見の寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとしました。p7778.jpg
女将のお登勢
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異変に気づいた入浴中のお龍は、p7767.jpg
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裏階段を駆け上がり、p7776.jpg
龍馬たちに急を知らせました。
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龍馬は所持したピストルを利用して多数の捕り方相手に大乱闘となり、p7762.jpg
手傷を負いながら も屋根づたいに逃げ、川端の材木小屋に隠れました。
一緒に逃げた長州藩士の三吉慎蔵は、あまりの捕り方の多さに、もはやこれまでと切腹しようとしましたが、龍馬はこれを押し留めて伏見薩摩藩邸に駆け込むように指示し、龍馬は手傷を負っていることもあり、その場で救援を待ちました。
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知らせを聞いた藩邸では、濠川(ほりかわ)沿いに舟を出し、p7764.jpg
龍馬を救助して伏見薩摩藩邸に匿いました。

*幕末当時の寺田屋の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると結論づけられました。p7772.jpg
事件の「弾痕」「刀傷」跡の再現?p7771.jpg
ピストルのレプリカp7773.jpg
この寺田屋は、現在も宿泊可能ですが、防犯問題が発生するだろうと、探してみたら、ありました。p7761.jpg
柱上部や、下部に、近代的な?鍵がついていました。これは、龍馬の時代にはなかったであろうと思います。

京都市の市有地となっている東隣の寺田屋跡地には、石碑や像などが建てられています。p7769.jpg

高知では、「土佐・龍馬であい博」が始まりよったそうです(^^)
あちらの友人によると、「まだちょっと、エンジンかかりよらん感じなが~。」ということでした。
龍馬伝については、「龍馬は、ちくっとイントネーションが可笑しいけんど、他の人は上手に話しゆうね。」と、言うちょりました。

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