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2010年07月08日

上田秋成 その4 呉春

秋成は、画家の松村呉春とは特に交友が深かったようです。
呉春の画に秋成が賛を寄せたものや、書簡も残されています。「胆大小心録」には、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にならぬ」というのが呉春の持論で、いろいろと食べ好みをした食通であったと書かれています。
寛政5年(1793)6月、60歳の秋成が妻の瑚璉尼とともに京都に出たその落ち着き先は、知恩院門前袋町でしたが、以後、南禅寺山内、東洞院四条、衣棚丸太町と市内を転々としました。寛政7年頃には、呉春と同じ長屋に住んだこともあったそうです。
寛政8年には、また袋町に戻り、9年の12月、そこで妻の瑚璉尼が急死しています。
p6647.jpg
呉春宅址としては、晩年に住まいしていたところとして、東洞院通錦小路上る西側 元竹田町にその石碑が建っていますが、『平安人物志』には、四条東洞院東入る北側となっています。応挙宅と近いですね。その門下から、異母弟の松村景文や岡本豊彦・横山清暉らの多くの画家を輩出しています。四条界隈に画室を構えたことから、四条派と呼ばれ、のちに応挙の円山派をしのぐようになってゆきました。

秋成の死の2年後、文化8年(1811)7月17日、呉春は60歳で亡くなって西九条の大通寺墓地に葬られましたが、その地が荒地となっていったので、明治22年(1889)一乗寺の金福寺に改葬されました。p6645.jpg
景文の墓と並んでいます。p6646.jpg

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