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2009年10月12日

小倉百人一首

右京区嵯峨二尊院門前北中院町に小倉山荘旧址厭離庵(おぐらさんそうきゅうしえんりあん )という臨済宗天龍寺派の尼寺があります。ここは藤原定家の小倉山荘跡で、定家が百人一首を撰したところと云われています。通常非公開で、紅葉の頃のみ、拝観できます。p8287.jpg
定家は、子の為家の舅 宇都宮頼綱(蓮生入道)から依頼されて、古来の名歌を選び障子色紙に書き記しました。この色紙が小倉百人一首のもとになったといわれていて、このあたりには、定家の小倉山荘と頼綱の中院山荘がありました。この山荘は、為家の子孫である冷泉家によって江戸時代に修復され、霊元法皇から厭離庵の号を受けました。p8286.jpg
常寂光寺と二尊院にも定家の「時雨亭」跡とされる所があり、定かでないようですが、このあたりであった事にはまちがいないでしょう。
亀山公園の小倉百人一首 前回のアップから、大分時間が立ってしまいましたが、続編です。
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この「忍ぶれど・・・」と次の「恋すてふ・・・」の歌は村上天皇の代の時、内裏歌合の席で詠まれた歌で、いずれ劣らぬ優れた歌として審判の左大臣藤原実頼が優劣の判定を下すことができず、天皇の意向を仰ぎ、ようやく兼盛の「忍れど・・・」の歌を勝ちとしたと伝えられています。敗れた忠見は、このことを憂い病床に臥してしまい、終には没したとも云われています。
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左大臣源融の邸宅であった河原院は、平安京に営まれた邸宅の中でも、もっとも豪壮なもので、源氏物語の六条院のモデルともいわれていた邸園でしたが、源融から4代目の孫 安法法師が住んでいた頃には荒れ果てていて見る影もなかったそうです。この歌は安法法師と親しかった恵慶法師が、この荒廃した河原院の立秋の風趣の中に、人の世のはかなさを詠んだ歌であるそうです。
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この歌は、長保元年(999年)に道長に従って嵐山の紅葉見物に行った時の歌です。この時すでに、嵯峨上皇の造った滝は枯れて形ばかりとなっていたのですね。嵯峨天皇が即位されたのが、809年ですから、それなりの年月が流れているわけです。p8272.jpg

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