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2009年10月15日

西行法師

鳥羽院の北面の武士であった佐藤義清は保延6(1140)年10月15日、23歳で出家し、円位を名乗り、後に西行と名乗りました。
北面の武士とは、白河上皇が院政を開始してほどなく創設された、院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人らの事です。

武勇にも秀で、蹴鞠に和歌にと非凡な才覚を持つ、何不自由ない権力者の嫡子が若くして出家したことは、当時突然の出来事であり、驚かれたようです。
出家理由は、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流ですが、失恋説もあり定かではありません。
西行さんゆかりの地はあちこちにありますが、祇園円山公園南側にも西行庵が再建されて残っています。
入り口p8268.jpgp8269.jpg
「西行堂」p8266.jpgp8265.jpg
西隣 西行庵の母屋「浄妙庵」
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さらに西隣 芭蕉堂p8263.jpg
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この堂は、江戸時代中期、松尾芭蕉を忍ぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に加賀の俳人高桑闌更が営んだことに始まっています。西行を心の師とし、西行を慕っていた芭蕉のために、この地を選んでいます。

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西行庵は、この双林寺の飛び地となっています。p8260.jpg


鈴鹿山 浮き世をよそに ふりすてて
 いかに成り行く 我が身なるらむ

出家して、伊勢の方へ行ったときの歌です。平安から鎌倉時代へとその時代の変化の中に、感受性の強い人が、悩みながらあちこち旅をしてゆく様は、和歌に凝縮されて残っているようです。

西行さんの歌は、桜や月・恋を詠ったものが多いですが、自然を愛し人を想い、それを歌に託す事が、経を唱える事と同意義であるかのようです。
松山を訪れ、崇徳院の足跡を訪ね歩き、なにも残っていない事を嘆き、次の歌を詠んでいます。

松山や 波に流れて こし舟の
     やがてむなしく なりにけるかな


もっとも有名なのは、やはりこの歌でしょうか。

願はくは 花の下にて 春死なむ
    その如月の 望月の頃


このように歌い、まさにこの時期に亡くなっています。これは結構、うらやましい話です。理想の死に際を迎えられるなんて、やっぱり修行のなせるわざかしらん?


月を見て 心浮かれし いにしへの
    秋にもさらに めぐり逢ひぬる

夜もすがら 月こそ袖に やどりけれ
     昔の秋を 思ひ出づれば


月を眺めて昔を思いやる歌も多いようですね。


ちなみに、この西行庵の東側には、その昔 円山幼稚園がありました。
私にとっても懐かしい一帯です。
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comments

幼稚園?  zuzuさんの?

それにしてもみんな膝に手を置いて、お行儀がいいなぁ。
古き良き・・・の一つなんだろな。

最前列真ん中の一番小さく、かしこまっているのが、私です。

「写真を撮る時は、ぽわ~んとしないで、あごを引きなさい。」と母に言われていたので、少し引きすぎた写真になってしまった記憶があります(^^)

  • zuzu
  • 2009年10月16日 09:29
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