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2009年10月17日

阿仏尼

弘安2年(1279年)10月16日、阿仏尼は相続問題を幕府に訴訟するため、鎌倉へ下りました。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記した日記が、後に「十六夜日記」と呼ばれるようになりました。
訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説があります。

平度繁(たいらののりしげ)の養女であった阿仏尼は、安嘉門院に仕え、女房名を安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)といいました。

10代の頃、失恋のショックから出家しましたが、30歳頃藤原為家の側室となり、嵯峨中院山荘に為家と同棲して為相・為守らを産むこととなります。

藤原定家の子 為家は後嵯峨院歌壇の中心的な歌人として活躍していましたが、正妻 宇都宮蓮生の娘との間に為氏、源承、為教ほか数人の子供がありました。

為相が生まれた弘長3年(1263)には為家66歳、嫡子である為氏は42歳、阿仏尼も為氏とほぼ同年齢であったと推定されています。

為家は年老いてから生まれた為相を可愛がり、嫡子為氏に不孝行為があったとして義絶、為氏に譲っていた播磨国細河荘を悔返し、為相に譲り与えました。この時、為氏は52歳、為相は11歳でした。

為家が建治1年(1275)78歳で没した後、為氏は、細河荘の悔返と為相への譲与を不当として取り戻し、阿仏尼は公家と六波羅探題に提訴しましたが、らちがあかず、関東に下向し、直接鎌倉幕府に訴えることを決意しました。
このとき阿仏尼はすでに60近い年齢で、幼い子供たちの為に、必死の思いでの旅立ちであったのでしょう。京を出て14日目、鎌倉に着いた彼女は、月影の谷に住まいし、鎌倉武士に歌を教えながら、訴えに全てをかけましたが、裁決での勝利を得ることなく、亡くなりました。

最終的に為相のものと定まったのは、正和2年(1313)阿仏尼没後、30年のことでした。定家・俊成が書き残した和歌の本も、共に為相に託されました。

こうして、藤原北家藤原道長の6男長家を祖とする藤原氏の流、御子左家(みこひだりけ)は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立し、為家の子の代に、嫡流 二条為氏(二条家)、その弟 京極為教(京極家)、冷泉為相(冷泉家)と分かれることとなりました。

二条家・京極家の家系は南北朝時代までに断絶し、冷泉家(上冷泉家・下冷泉家)及びその庶流の入江家のみが現在残っています。

京都に残る阿仏尼の墓は、南区大宮通九条下がる東側の大通寺にあります。p8255.jpgp8257.jpgp8256.jpg
彼女が守った冷泉家が、今日まで続いている事をどのように感じているのでしょうか?

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