Search


2010年02月04日

平清盛 西八条殿

治承5年閏2月4日(1181年3月20日)平清盛が熱病で亡くなりました。九条河原口の盛国の家で亡くなったそうです。
清盛の邸というと、東の六波羅ですが、西の交通の要衝として仁安元年(1166年)西八条にも別邸を造営しました。p7731.jpg
下京区七条御所ノ内本町にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)がその跡とされています。p7732.jpg
p7730.jpg
西八条殿の鎮守社として造り、開運出世を祈ったところ、太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神と尊崇されるようになったということです。
現在、西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあったといわれているので、ちょっとずれてはいるのですが。

白拍子の名手 祇王を寵愛し、この邸に抱えていましたが、あるとき、都で人気の高い白拍子の仏御前が「平家太政の入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ」と言って西八条を訪れました。仏御前と会おうとしない清盛を、祇王が取り成し、仏御前は今様を歌い舞を舞うことになりました。節回しも上手で、容姿も美しい仏御前を気に入った清盛は、祇王を追い出し、仏御前を邸に召しおく事としました。
祇王は障子に

 萌え出づるも枯るも同じ野辺の草
     いずれか秋にあはではつべき
(芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果ててしまうのです。)
との歌を書きつけて住みなれた西八条の邸を退いたのでした。神社内に、その歌碑が建てられていました。p7727.jpgp7726.jpg
その後、傷心の祇王のところへ、清盛から仏御前の前で歌い舞うようにとの使いがよこされ、邸に出向き舞を舞います。邸より帰った祗王は「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」として、妹 祗女、母 刀自と共に尼となり、嵯峨の山里 今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入りました。
母子三人念仏している所へ、尼となった仏御前が訪ねてきます。 祗王の不幸を思うにつれ、わが身の先行きもどうなるものやらと無常を感じ、邸を出てきたというものです。
このあたりが、この一連の物語の舞台であるそうです。

唯春の夜の夢のごとし

明日につづく

trackbacks

trackbackURL:

comments

comment form

(ZUZU log にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form